その他の事柄

上記のような球場の特色は、観客の応援スタイルにも影響を及ぼしている。ジェット風船を使った応援は、横浜市のポイ捨て・喫煙禁止条例抵触と試合進行妨害、近隣を走る根岸線への影響を理由に禁止している。なお、1995年のオールスターゲームのみ特別に許可され、チームカラーの1つである黄色い風船で埋め尽くされた。設けられた放送席のうち、高い位置にあり、またかなり狭いラジオ向けの放送席・「通称:鳥かご」がある。 (東京)ヤクルトスワローズ応援団(ツバメ軍団)による「ビニール傘応援」は、座席間隔が狭いため危険として一時期禁止されていた。バックスクリーンが肌色と相対色である青色であるため、投手のリリースポイントが見やすい。そのためか当球場での試合は乱打戦になる傾向がある。横浜の選手に本塁打が出ると"Good-bye Baseball!"(「入った! ホームラン!」の意)のアナウンスと共に汽笛が鳴り響く。かつてグラウンドにカモメやカラスやネコが入り込んで試合が中断したことがある。また、雨が降ったときに外野グラウンドにカエルが入り込んできたこともあった。3塁側内野スタンドの1階部分には剣道場(剣道横浜公武館)が入居している。本塁から両翼と中堅までの距離が12球団の本拠地球場の中で最も短い。完成当初の横浜スタジアムは、むしろこれらの距離が国内でもトップクラスに属したが、改装や新築移転などで当時の他球場が次々と淘汰された結果、このようになってしまった。2009年(平成21年)8月27日の横浜対阪神戦の試合中に観客の男性がライトスタンドからグラウンドに転落し頭を強く打って意識不明の重体となり、同29日にこの男性の死亡が発表された。この転落事故の教訓から、マナーを守って観戦してもらえるように対策を検討している。当日券の販売が有る場合には、各種指定席及び自由席を時間差をつけて販売している。なので、各種チケットの販売開始時間が場内アナウンスで事前に知らされる。 近年、相手チームが勝利した時のヒーローインタビューを行う事が多くなっている。他球場では滅多に見られない光景となっている。(他球場でも試合中継しているメディア向けに行われているが、球場内のスピーカーからは流さないようになっている場合が多い)2010年(平成22年)の横浜ベイスターズの球団売却交渉の際に、球場使用料や広告・物販収入が横浜ベイスターズに入らないなどの契約内容が球団の経営を圧迫していると問題になった。

球場の歴史
建設に至る経緯
横浜スタジアムが建設される前、この地には、1929年(昭和4年)に落成した横浜公園平和野球場(通称:平和球場)が存在した。この平和球場は、戦前には現在の日米野球の前身となるような米大リーグ選抜対日本代表の親善試合が行われ、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグといった当時のスター選手が訪れてプレーをしている。しかし太平洋戦争後、アメリカ軍による接収を経て横浜市に返還された後は老朽化が進行し、1970年代初頭にはスタンドが半分近く使用できないような状況であった。時を同じくして、当時川崎球場を本拠地としていた大洋ホエールズは、川崎球場の集客力に限界を感じ、より知名度の高い都市である横浜市への移転を目論んでいた。そこで大洋球団は1972年(昭和47年)11月22日、横浜市に対し「横浜平和球場が改築した折には、本拠地を川崎から移転したい」と申し入れを行い、当時横浜市長だった飛鳥田一雄の同意を得て覚書を取り交わした。

新球場建設
飛鳥田市長は、大洋の移転意思もあって球場建設にはやぶさかでなかったが、日本経済は折からの第一次オイルショックにより停滞。当然横浜市の財政もよいわけがなく、市が単独で建設の予算を捻出することなど到底不可能な状況だった。また、当時はみなとみらい21地区の造成もまだ構想段階であった上、市内には随所に返還の目処が立たない米軍接収地が点在していたため、横浜公園以外で同等の交通アクセスを確保できるような土地はなかった。従って、球場の建設イコール平和球場の建て替え、という図式へ必然的に流れていったが、平和球場を解体してプロ野球も開催可能な規模の球場を建設するには、公園内建築物の建ぺい率制限や、所管官庁である建設省との折衝、さらに神奈川県立武道館等、球場建設によって移転を迫られる横浜公園内施設の代替地問題など、資金面以外にもさまざまなハードルがあった。中でも、横浜公園内の米軍横浜チャペルセンターの立ち退きに際しては、日本政府のほかに米軍当局との調整も必要であった。

着工へ
建設中の横浜スタジアム横浜公園内には解体前の県立武道館・米軍チャペルセンター・野外音楽堂がまだ存在している(1977年撮影)。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。しかし、飛鳥田市長の斡旋により西武グループの総帥である堤義明国土計画社長が大洋球団の株式の一部保有(約45%)と建設資金3億円の融資を表明すると、建て替えの機運は急加速をはじめる。やがて飛鳥田らの奔走により資金以外の問題は順次クリアされ、堤による支援のほか市民からの株主も募り[13]、1977年ついに第三セクター法人の運営会社「株式会社横浜スタジアム」が設立される。そして1977年(昭和52年)4月1日、市の建替え計画に対し大蔵省の許可が下り、球場の建設が開始された。通常、この規模の建築物であれば2年前後の工期がかかるが、横浜スタジアムは翌年のプロ野球開幕に間に合わせるため、平和球場の解体を含めて1年程度の非常に短い工期が組まれることとなる。このため着工当初は7社程度のゼネコンによる共同企業体であったが、工期の関係上最終的には11社に及ぶゼネコンが結集し、超突貫体制で建築作業が行われた。法律上、公有地に企業が運営する施設を設置することができないため、建設は横浜スタジアム社が行った上で、一旦横浜市に施設を無償譲渡する形を執り、運営を横浜スタジアム社が行うという形が取られた。なお平和球場解体の際、スコアボードは藤沢市八部野球場に移設され、その後10年ほど使われていた。

この間、大洋球団は6月15日、横浜移転を前提として検討を進めている旨を発表。そして8月20日、翌1978年から横浜スタジアムを専用球場とすることを川崎市に正式に通達した。しかし、大洋側がそれまで川崎市側に対して配慮を行わず、突然一方的に移転を伝えられたことで川崎市は激怒。市内の19団体が「エントツだけのまちにしないで。」とキャッチフレーズを銘打って移転反対を唱えるキャンペーンを行い、当時の市の人口の約半分に当たる54万人分の署名を集めるなど、一時猛反発を呼ぶ事態となった。