落成について

幸い工事は工期どおり無事に終了し、1978年(昭和53年)3月31日、晴れて横浜スタジアムは完成。同年4月4日に杮落としとなる横浜大洋ホエールズ(移転により改称)−読売ジャイアンツの公式第1回戦が行われ、前年新人王の斉藤明雄の力投により地元大洋が4-1で勝利して花を添えた。この試合の始球式は、前市長として建設に尽力した飛鳥田一雄(この時の肩書きは日本社会党委員長、弁護士)が行っている。ロッテ共用問題 [編集]横浜スタジアムの着工が正式に決定した頃、ロッテオリオンズは大洋球団に対し、「横浜スタジアムをロッテも本拠地として共用し、年間40試合前後の公式戦を開催したい」と申し入れを行った。1972年(昭和47年)に本拠地の東京スタジアムを失ったロッテは、この頃は宮城県仙台市宮城球場を一応の専用球場としていた。しかし、東北新幹線は未開通、航空機も今ほど気軽に利用できる交通手段ではなかった時代であり、6球団中4球団(南海・近鉄・阪急・クラウンライター)が西日本に本拠を置き、さらに各球団とも現在とは比べ物にならないほど観客動員数の低かった当時のパ・リーグでは、カード毎の長距離移動はロッテ・ビジターともに選手の肉体面や経費の面で大きな負担であった。それゆえ、世間では首都圏に新たな球場が確保できればいずれロッテは仙台を捨てるだろうと考えられており、事実、横浜スタジアムの建設はロッテオリオンズにとってまさに渡りに舟と言える出来事であった。

しかし、横浜スタジアムの単独使用を既定路線として進めていた大洋球団は、共用によって日程上の制約を受ける事を嫌いロッテオリオンズの申し入れを拒否した。このとき大洋球団は既に川崎市に対し正式な移転通告をしていたため、プロ野球興行がもたらす経済効果を得たい横浜市と、それを喪失したくない川崎市、全国2位の人口を誇る大都市横浜で集客を伸ばしたい大洋球団とロッテオリオンズ、以上4者の思惑が交錯し、マスコミ等世間も注目する中[16]で竣工間近まで交渉が続いた。だが、すでに神奈川県における地域保護権を持つ大洋球団の優位は最後まで覆らず、当初の予定通り横浜スタジアムは大洋の専用となり、ロッテは川崎球場に落ち着くこととなった。本拠地問題が収束した後も、大洋球団が横浜移転発表前後に配慮を行わず紛糾を呼んだ経緯などから、川崎市と大洋球団は半ば絶縁状態となった。このため、大洋(横浜)球団の川崎球場での公式戦は横浜移転後の1978年から1992年まで開催されず、1993年(平成5年)には16年ぶりに阪神タイガース戦が1試合のみ日程が組まれたものの雨天中止となった。結局、大洋・横浜の公式戦はついに一試合も行われることはなく[18]、2000年(平成12年)に川崎球場の観客席は閉鎖・解体された。

建設後の主な改修
デーゲーム・スコアボード
ナイトゲーム・スコアボード
ライトスタンド側・照明塔横浜スタジアムは、完成後現在に至るまでの間に幾度も改装を受けている。
1978年 シーズン途中、ダッグアウト前にフェンスを設置
1989年 スコアボード大規模改修。選手名・得点表示部は、選手名・回数ごとに分割して表示部が設けられていたが、全面連結表示になり、光源も白熱球からLED(発光ダイオード)となった。また、映像表示部は動画も橙単色で写していたが、フルカラー式のものに改められた
1998年 内野人工芝張替え
1999年 スコアボード改修(東芝ライテック製:スーパーカラービジョン)。選手名・得点表示部分を橙単色LEDから3色(赤・緑・橙)LEDに変更。映像表示部も解像度の高い画面に交換。外野席をベンチシートから背もたれ付コンパートメントシートに換装。全席禁煙化。また、開場以来のメインスポンサーであった日産自動車が経営不振により撤退し、トヨタ自動車が日産に替わってその座に着いた。その影響で、スコアボード上端の広告が日産の「LIFE TOGETHER」からトヨタの「クルマが未来になっていく。」に改められている。2008年現在では「Drive Your Dreams.
2001年 外野人工芝張替え。リリーフカーも10年ぶりに代わり、開場以来の日産車(最後は日産・エスカルゴの改造車)からトヨタMR-Sの改造車に変更。
2002年 ベイスターズの親会社がTBSになったことに伴い、スコアボードの端にTBSの広告を掲示
2003年 内外野人工芝を、アメリカのメジャーリーグやサッカーの競技場の天然芝球場風の着色が施され、限りなく天然芝に近い感触とされる「フィールド・ターフ」に張替えた。
2004年 球場内ミニFM放送「FMハマスタ」用の放送ブースを、バックネット裏最上段に設置。
2005年 内野スタンドから、バックネット以外のフェンスを撤去。また、開設時からライトスタンド中段に設置された電子オルガン[19]ブース[20][21]も撤去。これによりライトスタンドの席数が若干増えた。そのほか、レストランやトイレ等、コンコース内の施設を改修した。
2006年 外野フェンスラバークッションの高さをフェンス上端までかさ上げし、クッション厚も変更。ブルペンのマウンド数を一塁側・三塁側とも2箇所から3箇所へ増設。バックネットに広告表示用のLED画面(ファンケル化粧品協賛の広告を掲示)を設置
2007年 バックネット裏[22]の座席を従来のオレンジ色のシートからベイスターズのチームカラーでもあるブルーのシートに変更。シートも跳ね上げ式になり、座席幅・間隔も10cm近く拡張される。その分座席数は2,000ほど削減されることになった。削減分は内野席最上段に立ち見スペースを設けることで、30,000人の収容能力を維持している。また、従来はスコアボード下のみにあったスピーカー設備を内野照明灯(4カ所8個)下にも設置した。
スコアボードの改修 [編集]スコアボードは白熱球を使用していた時代(1988年まで)のレイアウトは川崎球場に似たタイプで、左上がスコア、右上が自由表示ディスプレイ、左右下をメンバー表示にあて、中心に大時計・カウント・審判名を表示した。最上部は左に「YOKOHAMA」、右に「STADIUM」の表記が入る。なお得点は1回-延長10回までのスコアを表示し、11回からは改めて表示をクリアして1回のところから表示し直す方式だった。
1989年(平成元年)の改修で橙単色LEDが使用された時代は延長戦の場合はそれが行われるイニング分左にスライドしていく形(例えば延長10回が行われる場合、1回のスコアが消去され2回〜10回のスコアが表示される)だった。スコア上部には試合の経過時間(2008年以後、スピードアップ作戦のための奨励〔イニングス交代は2分15秒、投手交代を伴うものは2分45秒以内に再開させる〕により、インターバル時間も表示)が出されている。
1999年(平成11年)の改修でカラー化されてからは再び10回まで表示され、11回以後は改めて表示をクリアし、対戦チームの横に10回までのスコア、そしてその右隣に11回〜18回のスコアを表示できるようにしている。
2010年(平成22年)より球審のカウントコールの順番が変更された(国際慣習準拠)のに伴い、ボールカウント表示をストライク、ボール→ボール、ストライクの順に変更。日本のプロ野球本拠地では初である。

過去に起きた新球場建設の動き
近年は横浜スタジアムに替わる新球場建設の動きも見られた。

新鶴見操車場跡地の利用
1990年代の初めには近郊の新鶴見操車場跡に新球場を建設することを目指し入札手続の準備を進めたが、入札に参加しなかったためそれが頓挫したこともあったといわれている。

横浜ドーム構想
横浜ベイスターズ横浜大洋ホエールズ)が、この球場を本拠地としてから初めて本格的な優勝争いに加わった1997年(平成9年)から優勝した1998年(平成10年)にかけて、多くのファンが大挙して横浜スタジアムへ集うようになった。特に1998年(平成10年)はゴールデンウィーク以降、どの対戦カードも公式発表で2万人を超える入場があり、当日チケット発売なしの試合も決して珍しくなかった。このため、チケットを買いそびれたファンからは横浜スタジアムの収容観客数の少なさが叫ばれ[24]、入場できたファンからも施設の狭さに対する不満が続出した。これに乗じた高秀秀信横浜市長(当時)は、みなとみらい21地区[25]に多目的ドームを前提とした新球場建設を提案し、横浜商工会議所等の地元経済団体も呼応する動きを見られた。しかし当初から、大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)など他都市で多目的ドームの経営失敗例が生じたことや、横浜アリーナ等の既存施設と完成後の使用目的が一部競合することなどから、ベイスターズファンであるなしを問わず、多くの横浜市民が多目的ドームの必要性・採算性に疑問を持っていた[要出典][27]。それに加え、2000年代に入るとベイスターズの成績がふたたび低迷し観客数も減少。さらに2002年(平成14年)、主唱者であった高秀が市長選に敗れて退陣し(その直後に死去)、新市長に就任した中田宏によって横浜市が不要不急な公共事業を凍結する政策に転換したこともあり、新球場構想はたちまち頓挫した。その後、高秀の構想によって新球場建設予定地と目されていた西区みなとみらい6丁目の広大な空き地は、日産自動車との定期借地によりJリーグ横浜F・マリノスの練習場・クラブハウス(マリノスタウン)、ならびに横浜市横浜みなとみらいスポーツパーク(管理・運営は(財)横浜市スポーツ振興事業団)となった。

交通機関
JR根岸線 関内駅 南口より徒歩3分
横浜市営地下鉄ブルーライン 関内駅 1番出入口より徒歩5分
JR根岸線 石川町駅 北口より徒歩5分
横浜高速鉄道みなとみらい線 日本大通り駅 横浜スタジアム口より徒歩3分
横浜市営バス 横浜スタジアム前・市庁前・内駅北口・尾上町羽衣町停留所

その他の事柄

上記のような球場の特色は、観客の応援スタイルにも影響を及ぼしている。ジェット風船を使った応援は、横浜市のポイ捨て・喫煙禁止条例抵触と試合進行妨害、近隣を走る根岸線への影響を理由に禁止している。なお、1995年のオールスターゲームのみ特別に許可され、チームカラーの1つである黄色い風船で埋め尽くされた。設けられた放送席のうち、高い位置にあり、またかなり狭いラジオ向けの放送席・「通称:鳥かご」がある。 (東京)ヤクルトスワローズ応援団(ツバメ軍団)による「ビニール傘応援」は、座席間隔が狭いため危険として一時期禁止されていた。バックスクリーンが肌色と相対色である青色であるため、投手のリリースポイントが見やすい。そのためか当球場での試合は乱打戦になる傾向がある。横浜の選手に本塁打が出ると"Good-bye Baseball!"(「入った! ホームラン!」の意)のアナウンスと共に汽笛が鳴り響く。かつてグラウンドにカモメやカラスやネコが入り込んで試合が中断したことがある。また、雨が降ったときに外野グラウンドにカエルが入り込んできたこともあった。3塁側内野スタンドの1階部分には剣道場(剣道横浜公武館)が入居している。本塁から両翼と中堅までの距離が12球団の本拠地球場の中で最も短い。完成当初の横浜スタジアムは、むしろこれらの距離が国内でもトップクラスに属したが、改装や新築移転などで当時の他球場が次々と淘汰された結果、このようになってしまった。2009年(平成21年)8月27日の横浜対阪神戦の試合中に観客の男性がライトスタンドからグラウンドに転落し頭を強く打って意識不明の重体となり、同29日にこの男性の死亡が発表された。この転落事故の教訓から、マナーを守って観戦してもらえるように対策を検討している。当日券の販売が有る場合には、各種指定席及び自由席を時間差をつけて販売している。なので、各種チケットの販売開始時間が場内アナウンスで事前に知らされる。 近年、相手チームが勝利した時のヒーローインタビューを行う事が多くなっている。他球場では滅多に見られない光景となっている。(他球場でも試合中継しているメディア向けに行われているが、球場内のスピーカーからは流さないようになっている場合が多い)2010年(平成22年)の横浜ベイスターズの球団売却交渉の際に、球場使用料や広告・物販収入が横浜ベイスターズに入らないなどの契約内容が球団の経営を圧迫していると問題になった。

球場の歴史
建設に至る経緯
横浜スタジアムが建設される前、この地には、1929年(昭和4年)に落成した横浜公園平和野球場(通称:平和球場)が存在した。この平和球場は、戦前には現在の日米野球の前身となるような米大リーグ選抜対日本代表の親善試合が行われ、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグといった当時のスター選手が訪れてプレーをしている。しかし太平洋戦争後、アメリカ軍による接収を経て横浜市に返還された後は老朽化が進行し、1970年代初頭にはスタンドが半分近く使用できないような状況であった。時を同じくして、当時川崎球場を本拠地としていた大洋ホエールズは、川崎球場の集客力に限界を感じ、より知名度の高い都市である横浜市への移転を目論んでいた。そこで大洋球団は1972年(昭和47年)11月22日、横浜市に対し「横浜平和球場が改築した折には、本拠地を川崎から移転したい」と申し入れを行い、当時横浜市長だった飛鳥田一雄の同意を得て覚書を取り交わした。

新球場建設
飛鳥田市長は、大洋の移転意思もあって球場建設にはやぶさかでなかったが、日本経済は折からの第一次オイルショックにより停滞。当然横浜市の財政もよいわけがなく、市が単独で建設の予算を捻出することなど到底不可能な状況だった。また、当時はみなとみらい21地区の造成もまだ構想段階であった上、市内には随所に返還の目処が立たない米軍接収地が点在していたため、横浜公園以外で同等の交通アクセスを確保できるような土地はなかった。従って、球場の建設イコール平和球場の建て替え、という図式へ必然的に流れていったが、平和球場を解体してプロ野球も開催可能な規模の球場を建設するには、公園内建築物の建ぺい率制限や、所管官庁である建設省との折衝、さらに神奈川県立武道館等、球場建設によって移転を迫られる横浜公園内施設の代替地問題など、資金面以外にもさまざまなハードルがあった。中でも、横浜公園内の米軍横浜チャペルセンターの立ち退きに際しては、日本政府のほかに米軍当局との調整も必要であった。

着工へ
建設中の横浜スタジアム横浜公園内には解体前の県立武道館・米軍チャペルセンター・野外音楽堂がまだ存在している(1977年撮影)。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。しかし、飛鳥田市長の斡旋により西武グループの総帥である堤義明国土計画社長が大洋球団の株式の一部保有(約45%)と建設資金3億円の融資を表明すると、建て替えの機運は急加速をはじめる。やがて飛鳥田らの奔走により資金以外の問題は順次クリアされ、堤による支援のほか市民からの株主も募り[13]、1977年ついに第三セクター法人の運営会社「株式会社横浜スタジアム」が設立される。そして1977年(昭和52年)4月1日、市の建替え計画に対し大蔵省の許可が下り、球場の建設が開始された。通常、この規模の建築物であれば2年前後の工期がかかるが、横浜スタジアムは翌年のプロ野球開幕に間に合わせるため、平和球場の解体を含めて1年程度の非常に短い工期が組まれることとなる。このため着工当初は7社程度のゼネコンによる共同企業体であったが、工期の関係上最終的には11社に及ぶゼネコンが結集し、超突貫体制で建築作業が行われた。法律上、公有地に企業が運営する施設を設置することができないため、建設は横浜スタジアム社が行った上で、一旦横浜市に施設を無償譲渡する形を執り、運営を横浜スタジアム社が行うという形が取られた。なお平和球場解体の際、スコアボードは藤沢市八部野球場に移設され、その後10年ほど使われていた。

この間、大洋球団は6月15日、横浜移転を前提として検討を進めている旨を発表。そして8月20日、翌1978年から横浜スタジアムを専用球場とすることを川崎市に正式に通達した。しかし、大洋側がそれまで川崎市側に対して配慮を行わず、突然一方的に移転を伝えられたことで川崎市は激怒。市内の19団体が「エントツだけのまちにしないで。」とキャッチフレーズを銘打って移転反対を唱えるキャンペーンを行い、当時の市の人口の約半分に当たる54万人分の署名を集めるなど、一時猛反発を呼ぶ事態となった。

球場の短所と長所

法規制クリアのため設計上の無理が少なからずあり、以下のようなしわ寄せが来ている。外野スタンドは傾斜が急なのに加えて、スコアボードが最後列よりも大分前に設置されているため、見づらい所や全く見えない所が存在する。バックスクリーンが外野フェンスのすぐ後ろ(数十cmの段差があるだけ)でフェンス最上段に黄色い識別用ラインが引かれているものの、その段差部分に飛び込んだ打球の判別に困難な時がある。2009年(平成21年)に中日のトニ・ブランコがここに当たる打球を放ったが、オーバーフェンスではないという判定になった。これについて落合博満監督が「オーバーフェンスかどうかを識別しやすい構造に変えるべきだ」と報道陣にコメントしている。2010年シーズンからは段差部分に土嚢が置かれ、土嚢に当たったボールの跳ね返りでオーバーフェンスかどうかの判別をしやすい様にしている。2007年(平成19年)に改修されたベイブルーシートエリアを除くと、内外野とも前後の座席間隔が狭いため試合中の離席が困難。


コンコースが狭いため売店やトイレが少なく、試合終了時に通路やゲートがとても混雑する。また、スタジアムが全席禁煙化されてからは、コンコース内やスタジアム外周に張り出して設置された喫煙場所を利用する喫煙者で、コンコース中が混雑している。他にも観客の立場から見て不都合な点も多く、必ずしも快適に観戦できる球場とは言い難い。オープン当初はスコアボード後方の通路で左右の外野スタンドを連絡していたが、トラブル防止のために通路は閉鎖され、完全に分断されたため、ライト側観客席からレフト側観客席、あるいはその逆の移動はできない。その為か、入場ゲートも自由席が有るにも関わらずライト側とレフト側に分けられているので、「こちらは○○ファンの方が並ぶ最後尾です」というプラカードを係員が掲示して案内している。両翼ポール際付近はスタンドのどの位置からも死角になりやすく、例えば一塁側内野席やライト側外野席に座ると、ライト線に打球が行った場合フェアかファウルかが判りづらい。またフェアであっても外野手の打球処理が見えない。

ただし、内野席の外野側の座席をバッテリー間に向けるとこの不具合は避けられないものであり、近年のプロ用の新球場ではこの不具合よりも座席の向きを優先している球場が多い。しかしその一方で、以下の点は他球場と比較して有利とされる。外野側のファウルゾーンが狭く内野スタンドのネットも撤去された事から、観客とプレーする選手との距離が近く感じられ、臨場感が大きい。また試合の前後に、可動式スタンドの中央部から直に選手と握手したりサインを求めたりする事ができる。鉄道路線が三つ(横浜市営地下鉄みなとみらい線・JR根岸線)も通り、いずれも球場から徒歩5分以内の所に駅があるため、都心や横浜市内からのアクセスがよく、延長戦でも比較的安心して観戦できる。球場周辺に、横浜中華街や山下公園など試合の前後に立ち寄れるような観光スポットが多くある。伊勢佐木町などの繁華街が近く、球場周辺にナイター終了後も営業している飲食店が多くある。 ゲーリッグとルースのレリーフ [編集]横浜スタジアムには、外野レフトスタンドのポール際にベーブ・ルースレリーフが、ライトスタンドのポール際にルー・ゲーリッグレリーフがそれぞれ設置されている。


これは、後述の通りルースやゲーリッグというメジャーリーグベースボールの歴史に名を残すスターがこの地でプレーした事を記念するものである。


名球会入り選手のプレート設置
2006年(平成18年)からは、名球会入りしたホエールズベイスターズの選手の名前を入れたボール模様のプレートをライト外野スタンドに設置し、その功績を称えている。配置は右中間からライトポール際に向かって、以下の通り。
「1980.4.23 2000HITS 松原誠」(最終記録2095安打)
「1983.10.21 200WINS 平松政次」(最終記録201勝)
「2000.9.6 2000HITS 駒田徳広」(最終記録2006安打)
「2005.4.14 250SAVES 佐々木主浩」(最終記録381セーブ…日本252セーブ、アメリカ129セーブ)
「2006.5.11 2000HITS 石井琢朗


売店
売店は内野スタンド2階通路と外野スタンド1階に設置されている。高校野球の時は外野席の売店は営業しない(内野席が満席の場合、外野席が開放される。この時内野席から外野席へは移動できるが外野席から内野席への移動はできない)。内野スタンド一塁側にはマクドナルドが、三塁側にはケンタッキーフライドチキンがある。一時期ミスタードーナツもあったが今は撤退。場内で販売されている牛丼は以前は吉野家だったが2001年(平成13年)頃からはなか卯となっている。また、スタジアム内で売られている「みかん氷」が名物となっている。かき氷の上に缶詰のみかんが乗り、その上に缶詰みかんのシロップをかけたもので、一杯300円。大久保博元も推薦している。特に真夏のデーゲームで行われる高校野球神奈川大会の時には、購入までに長時間待たされることもある。2009年(平成21年)までは1,3塁側の内野売店(2004年までは3塁側のみ)での販売であったが、2010年(平成22年)より外野席の売店でも販売するようになった(但し外野の売店は7回頃で閉まってしまうため注意が必要である)。

2007年(平成19年)からは1塁側のみだが、みかんの代わりに缶詰パイナップルとシロップを使った「パイナップル氷」が発売された。一杯350円。崎陽軒シウマイ弁当の掛紙は横浜スタジアムオリジナルの物が使われている。ただし定価の750円より100円高い850円となる。関内駅にある崎陽軒売店では定価で売られているが掛紙は通常。内野席中程の3階には2005年(平成17年)に既存のレストランを改修した「カフェ・ビクトリーコート」が有り、店内にはベイスターズホエールズ)の歴代のユニフォームや優勝ペナント等が飾られている。スタンドの傾斜が激しい事もあり、関東のプロ本拠地球場では唯一、客席での生ビールタンクサーバー売りは実施されていない。売り子からビールを買うと缶ビールをカップに移し替えての販売である。1杯500円。生ビールの販売はコンコースの各種売店や、アサヒビールスタンドのみである。こちらは1杯650円。場内を売り歩いているビールの売り子さんが販売しているおつまみは2種類。マルハの関係からかちくわ、そして地元の美濃屋あられ製造本舗の横濱ビア柿である。いずれも税込み200円。

横浜スタジアムを語る

横浜スタジアムは、日本の神奈川県横浜市中区の横浜公園内にある野球場。日本プロ野球横浜ベイスターズの本拠地(専用球場)として使用されている。1978年(昭和53年)3月、老朽化した横浜公園平和野球場の跡地に竣工。同年より、川崎球場から移転した横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の本拠地となったほか、神奈川大学野球連盟のリーグ戦や、全国高校野球選手権の神奈川大会、横浜市長杯関東地区大学野球選手権大会(全国明治神宮野球大会出場決定戦)等、アマチュア野球の会場としても用いられる他に、アメリカンフットボールの会場としてもしばしば利用されている。高校野球夏の大会では、開会式のほか1回戦から使用され、準々決勝以降は保土ヶ谷球場にかわりメインスタジアムとなる。施設は横浜市が所有し、市などの出資による第三セクター・株式会社横浜スタジアムが運営管理を行っている。どんぶりを傾けたような外観と、横浜のイニシャル“Y”を模した逆三角形の6基の照明塔が特徴である。2003年(平成15年)からロングパイル人工芝「フィールド・ターフ」を、日本の屋外球場では初めて採用した。

神宮球場の拡張、広島の新球場への移行により、横浜スタジアムプロ野球で使用される本拠地球場で両翼・中堅までの距離が最も狭い球場となった。日本初の多目的スタジアム [編集]内野スタンドの前段は可動式。野球場としての使用時にはVの字になっているが、一、三塁側前列を移動させて平行にすることができる。この可動式スタンドや昇降式マウンドは、いずれもプロ野球以外の興行への使用を前提に設置された。このため、横浜スタジアムは日本で初めて設計段階から多目的スタジアムとして造られた建築物といえる。二塁ベース後方を中心として真円形に作られたスタンドなど、アメリカで1960~1970年代に流行したアメフト兼用球場の影響が見てとれる。この特徴は後のドーム球場等にも取り入れられた。また、プロ用野球場としては日本で初めて、建設時から全面人工芝グラウンドを採用している。なお可動席は、2003年(平成15年)に人工芝を「フィールド・ターフ」に張り替えたことに伴い、可動席を動かせるように人工芝を剥がすには経費がかかるようになってしまったため、現在は事実上移動させることがなくなっている。

最後に可動席が移動したのは、2001年(平成13年)11月23日に横浜ベイスターズ横浜F・マリノスとの合同ファン感謝イベントである。これ以外にも、フットボールなどの試合の際には可動席を動かすことがあった。横浜スタジアム建設前の横浜市内には大型の競技場やコンサートホールなどが無く、スポーツや興行の分野では魅力の薄い街であったが、スタジアムの完成がこれらの分野の発展にも大いに寄与した。長年にわたり横浜国際女子駅伝の発着会場となったほか、Jリーグ草創期にはグラウンドに天然芝のマットを敷いてプレシーズンマッチを行ったこともある。また、コンサート会場としても数多く利用され、国内外の多数の有名アーティストが過去に大規模コンサートを行なってきた。しかし屋根がない横浜スタジアムは、天候によってイベント開催の可否が左右されやすく近隣への騒音問題もあり、また3万人収容という施設に応じた集客が難しいことから、横浜アリーナ横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)が完成した1990年代以降、野球以外でスタンドが満員になるような大きなイベントにはそれ以前ほど使用されなくなっている。

だが、TUBEは20年以上にもわたり毎年8月で横浜スタジアムでコンサートを実施しており、夏の風物詩となっている。また、近年では毎年夏頃に1回程度、TUBEおよび国内の有名アーティスト1組が野外コンサートを開催しているほか、2006年から2009年までは横浜レゲエ祭も開催されていた。

建ぺい率の問題
建物の立体的な外観は、他の野球場に見られるような垂直的なそれではなく、スタンドの上辺が広く下辺が狭い逆円錐形をしている。これは都市公園法施行令第6条1項1号で定められている、都市公園内運動施設の建ぺい率規制によるもので、スタンドの下辺をもって建ぺい率を計算するためのいわば苦肉の策である。兎にも角にも面積上の問題をクリアするためにかなり無理のある設計を行っている。また、近年に建設されたいわゆる「国際規格」の野球場に比べ、収容観客数の少なさやグラウンド面積の狭さが指摘されて久しいが、法規上の限界の中で設計されていることから、スタンドの増築を伴う観客席増設や、スタンドの構造変更を伴うグラウンド面積の拡張なども、法令の改正がなされない限り事実上不可能である。ダッグアウト裏やグラウンド内に場所が確保できなかったため、ブルペンは外野スタンドの下に存在する。ちなみに、ブルペンは目隠し用のテントと侵入防止用の鉄柵を隔てただけで横浜公園に面しているので、球場外からリリーフ投手の投球を受ける捕球音やブルペン捕手の掛け声を聞く事が出来る。

横浜スタジアムの外野フェンスは高さがドーム球場並みに5mもあり、グラウンド内でバウンドした打球がフェンスを越えてエンタイトルツーベースに至ることはほとんどあり得ず、フェンスによじ登ってのフライ捕球もまず不可能である。また、フェンスが高いとは言っても、外野スタンドが狭いため、プロのパワーヒッターであれば場外ホームランを打つ事も可能である。ダッグアウトブルペンの間は連絡路がなく隔絶されているため、プロ・アマ問わずリリーフ投手は試合前からブルペンで待機するか、試合中の攻守交替時にグラウンドを歩いてブルペンに向かわなければならない。また、ブルペンからマウンドまでが遠いので、プロの試合における投手交代時は通常、リリーフカーを使用する。球場誕生時は日産自動車のブルーバード910型のオープンカーを使い、その後は同社のBe-1やエスカルゴを経て、現在のリリーフカーはトヨタ自動車のスポーツカー・MR-Sを改造したものを使用している。

総合練習場

横浜ベイスターズ総合練習場は、神奈川県横須賀市にある野球場。プロ野球横浜ベイスターズの練習場で、同球団が運営管理している。通称「ベイスターズ球場」。大洋ホエールズ(当時)はかつて、川崎市中原区多摩川河川敷近くにあった大洋多摩川グランドを練習場兼二軍本拠地として使用していた。1980年、横浜市保土ケ谷区と戸塚区の区界に設けた保土ヶ谷大洋球場(現横浜FC LEOCトレーニングセンター)に移転し、イースタン・リーグ公式戦も行われたが、交通アクセスが不便な上に観客席がなく、試合観戦に適した環境とは言い難かった。また敷地も手狭で屋内練習場などの施設も不充分であった。このため、大洋球団は横須賀市にあった親会社の大洋漁業(現マルハ)倉庫跡に総合練習施設を整備し、1987年に横浜大洋ホエールズ総合練習場として開設した。一方、二軍の本拠地は1年早い1986年に、新設された平塚球場に移転した。1993年、球団名の変更に伴い現名称に変更した。メイン球場のフィールドは本拠地の横浜スタジアムとほぼ同じサイズで、三塁・左翼場外に室内練習所と合宿所がある。


但し、イースタン・リーグ公式戦は主に横須賀スタジアム平塚球場で開催しており、東北楽天戦を除いてはベイスターズ球場が使用されるケースは少ない(シーズン終盤に行われる雨天中止分の振替開催で使用されることがある)。ただし、春季・秋季に行われる教育リーグ(二軍オープン戦)の湘南主催試合やイースタン・リーグチャレンジマッチ フューチャーズ戦はベイスターズ球場で行われることが多い。三塁側後方には横須賀港を控えており、海上自衛隊護衛艦が停泊している様子を見ることもできる。


施設の詳細
両翼:94 m、中堅 120 m
内野:クレー舗装、外野:天然芝
照明設備:なし
収容人員:367人
観覧可能箇所はネット裏のメインスタンドのみ。多客時には外野スタンドも開放されるが、それ以外の箇所は立入禁止となっている。太鼓・トランペットを使用しての応援は禁止。

交通
京急本線安針塚駅から徒歩約10分、横須賀線田浦駅から徒歩約12分

備考
旧株式会社エヌ・エー・コーポレイション。2009年4月1日にニチロあけぼの商会株式会社に吸収合併され、現社名へ変更。
マルハニチロホールディングス 有価証券報告書』第5期(平成20年4月1日-平成21年3月31日)及び、『株式会社東京放送 有価証券報告書』第81期(平成19年4月1日-平成20年3月31日)によると、当該練習場はマルハニチロアセット社より横浜ベイスターズ社への賃貸不動産と、横浜ベイスターズ保有部分から成る。
神奈川県川崎市中原区等々力向原3021

横浜ベイスターズ主催試合の地方球場の一覧

神奈川県(保護地域)
1軍 - 横浜スタジアム(専用球場、横浜市中区)
2軍 - 横須賀スタジアム横須賀市)、平塚球場平塚市)、ベイスターズ球場横須賀市)、相模原市立相模原球場相模原市
地方開催の運営方法
球団の筆頭株主がマルハ(もとの大洋漁業、現マルハニチロ水産)だった頃は宮城県仙台市や北海道函館市など、近隣に大規模な漁港などがあり、かつ同社が営業拠点を保有している都市で主催公式戦を開催するケースが多かった。また当時は地元主催者に興行権を売却する「売り興行」が主流であった。だが2002年、球団の筆頭株主東京放送(現東京放送ホールディングス)へ移行。翌2003年以降の地方開催は、球団が直接運営に携わりつつ、開催先のJNN系列局と共同で主催するケースが主流となっており、売り興行はほとんど行われなくなっている。なお神奈川県内の公式戦(相模原・平塚)は、球団独自の主催によって開催している。

神奈川県(保護地域)
川崎球場(1993<試合中止>)
1955年-1977年までは本拠地球場。
相模原市立相模原球場(1998,2001-2002,2008-<2001,2007は中止>)
かつて日本ハムファイターズのファーム・チームの本拠地であったため、交流戦での対北海道日本ハムファイターズ戦で使用されることがある。
平塚球場(1989-<1998は中止>)
近年は2試合開催されることがある。
ファームの準本拠地。


北海道
釧路市民球場(1995,97-98,2001,2003)
帯広の森野球場(1995,97-98,2001,2003)
旭川スタルヒン球場(1993,1995,1997,1999)
札幌市円山球場(1989-2000)
札幌ドーム(2001-2005)
函館市千代台公園野球場(不明)
かつて北海道シリーズとして函館・札幌・旭川・釧路・帯広のうちで3連戦が設定されていた。
親会社が大洋漁業→マルハ時代には多くの漁業関係者が大漁旗とともに観戦。
函館では北海道鹿部町出身の盛田幸妃の地元試合として多数の応援団が観戦。


東北
岩手県営球場(1989-1992,1995,1997,2004)
岩手県二戸市出身の欠端光則の地元試合として多数の応援団が観戦。
宮城球場(1989-2001,2004<1994,1997,1999は中止>)
大洋漁業→マルハの主要漁港の一つである塩釜港に近く、また、佐々木主浩斎藤隆の地元試合として多数の応援団が観戦。
山形県野球場(1993,1998-1999,2001,2004-2005<1998は中止>,2008)
福島県営あづま球場(1994,1996,2008)
いわきグリーンスタジアム(1997)


関東
ひたちなか市民球場(1997)
水戸市民球場(1989)
宇都宮清原球場(1989-1991,1995-1996<1990,1996は中止>)
後楽園球場(不明)
明治神宮野球場(不明)
山梨県小瀬スポーツ公園野球場(2007,2009-)


中部
新発田市営球場(1973)
新潟市営白山野球場(1952)
新潟市営鳥屋野野球場(1973,1986)
HARD OFF ECOスタジアム新潟(2009-)
栃尾鉄道悠久山球場(1952)
高田市営球場(1952)
富山市民球場アルペンスタジアム(1994,1999)
石川県立野球場(1992)
福井県営球場(1992,1994,1999<1999は中止>)
長野オリンピックスタジアム(2003,2006-)
2006年-2009年・2011年には読売ジャイアンツ戦が設定。
松本市野球場(2003,2009)
静岡県草薙総合運動場野球場(1989-1991,1993,1995-2007<2000は中止>,2011)
近年は2試合開催されることがあり、2004年-2005年・2007年には読売ジャイアンツ戦が設定。
かつての春季キャンプ地であり、下関市と同様に球団所縁の地である。
親会社が大洋漁業→マルハ時代には遠洋漁業の基地がある焼津市から応援団が観戦。
山下大輔の出身地でもあり、自身が創業者一族のヤマシタコーポレーションの応援団が観戦。


近畿
大阪球場
西京極球場
衣笠球場
※以上1953,1954年の開催。これは松竹ロビンスとの球団合併・統合により「大洋松竹(洋松)ロビンズ」として出場したためによるもので、本拠地は旧松竹ロビンズ側の大阪球場を主として使用した。


九州・山口
平和台球場(1950,1980)
下関球場(1989-1994,1996,1998,2004,2006,2007)
1950年に発足した大洋ホエールズの本拠地球場として1952年まで使用されていた。
西京スタジアム(2007)
小倉豊楽園球場(不明)
北九州市民球場(1993,2008)
福岡ドーム(2004)
佐賀県立森林公園野球場(2002,2005)
長崎ビッグNスタジアム(1999-2000,2002,2005,2006)
熊本・藤崎台県営球場(1989-1992,1994,1996,1998,2003,2005<2005は中止>)
新大分球場(2008)
大分県大分市出身の内川聖一の地元試合として多数の応援団が観戦。
鹿児島県立鴨池野球場(2001,2003,2005)
奥武山野球場(1975,2010、2011) 1975,2010、2011年共に2試合開催(2011年は予定)

沖縄で公式戦

横浜は2010年6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した那覇市営奥武山野球場沖縄セルラースタジアム那覇)で対東京ヤクルトスワローズ2連戦を主催開催した。横浜は大洋ホエールズ時代の1975年5月17日・5月18日、改築前の県営奥武山野球場(当時)で対広島東洋カープ2連戦を主催開催したが、沖縄県ではこの試合以来、実に35年ぶりのプロ野球公式戦となった。またこの2試合は、沖縄県でのプロ野球一軍公式戦としては史上初のナイター(19時開始)となった。


明大五人衆
1956年に明治大学から秋山登土井淳・岩岡保宏・黒木弘重・沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するケースは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれ注目を集めた。

横浜大洋銀行
横浜大洋ホエールズに対しては1980年代、本拠地・横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や、当時存在した太陽神戸銀行(現在の三井住友銀行)をもじった「横浜大洋銀行」という呼び名が付けられていた。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。他球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使用し、特に連敗が込んだ時や、テレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使用された。1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「横浜銀行」と呼ばれるケースが多いが、実際には球団と同行の間には直接的な関係はない。詳細は横浜銀行#その他を参照のこと。蛇足だが、ベイスターズのオフィシャルグッズショップ「ザ・ベイスターズ」のレジでは一時期、横浜銀行が得意先に配布していたノベルティのロゴ入り金銭皿を使用していたことがある。巨人戦に連敗し続けたあるシーズン、横浜が久々に巨人戦で勝利を挙げた夜には、当時テレビ朝日系『ニュースステーション』で放送されていた名物企画「プロ野球1分勝負」で、同カードの結果を報じるVTRに「今後の融資はお断りいたします」というオチを付けた程であった。

1990年以降は巨人戦で好成績をマークしたり、とりわけ1998年には38年ぶりのリーグ優勝を飾るなど、過去にはその汚名を返上したシーズンもあったが、2000年代で読売ジャイアンツに勝ち越ししたシーズンは2005年の1回のみ。これは2000年のみ勝ち越しのヤクルトと並ぶ。2006年以降は巨人を相手に4年連続で負け越しているほか、2008年終盤には巨人と優勝争いを繰り広げた阪神を相手に6連勝するも、対する巨人には7連敗を喫し、これが結果として間接的な「優勝へのアシスト」になってしまったことなどから、一部マスコミからはヤクルトとともに「関東軍」とも呼ばれている。

スーパーカートリオ
高木豊加藤博一屋鋪要の俊足打者3名を指す。近藤貞雄監督時代の1985年に彼ら3人を打順の1-3番に並べ、「スーパーカートリオ」と命名された。この年の3人の盗塁数は、高木42盗塁、加藤48盗塁、屋敷58盗塁、合計148盗塁だった(高木は前年盗塁王、屋敷は翌年から3年連続盗塁王)。後に加藤の代わりに高橋雅裕を加えたニュースーパーカートリオが結成された。2006年7月16日の横浜-広島戦のイベントで、広島の川口和久-達川光男のバッテリーと打者・田代富雄と共に一回限りの復活がなされた。結果は高木・二盗死、加藤・牽制死、屋鋪・二盗成功。

花の44年組
チーム名がホエールズからベイスターズに変わる1993年頃、昭和44年(1969年)(昭和45年の早生まれの者も含まれるので、正確には昭和44年度)生まれの選手が多数一軍で活躍した事から呼ばれた言葉。具体的には、斎藤隆野村弘樹島田直也五十嵐英樹・有働克也・盛田幸妃進藤達哉など。彼らは当時24〜5歳の若手であり、数年後の日本一達成時にも、移籍した有働と盛田以外は全員が主力として活躍した。現在、斎藤以外は全員現役を退いたが、野村がコーチとして、有働が打撃投手として、進藤がスカウトとして、盛田が球団職員としてそれぞれ横浜に在籍している。翌年の昭和45年生まれも谷繁元信石井琢朗波留敏夫佐伯貴弘井上純と当たり年であった。98年の日本一を達成できたのはこの昭和44,45年組の「黄金世代」といえる選手たちの働きが大きかったと言える。

マシンガン打線
ベイスターズ打線の代名詞。長打力はないものの、連打でたたみかける途切れのない打線を形容して命名され、1998年の優勝時にベイスターズ打線の愛称として定着した。基本的なオーダーは、石井琢朗-波留敏夫-鈴木尚典-ロバート・ローズ-駒田徳広-佐伯貴弘中根仁)-進藤達哉-谷繁元信-投手の順である。

クアトロK
横浜の4人の救援陣(木塚敦志加藤武治川村丈夫マーク・クルーン)を指す。4人の頭文字の「K」とイタリア語で4を意味する「クア(ワ)トロ」から。