震災と戦災・接収の時代について

1923年9月1日に起きた関東大震災では、横浜港、関内を始め、市内全域で甚大な被害を受けた。東京より震源に近くほぼ直下型地震の直撃を受けた横浜市内は特に壊滅的な被害を受け、各国領事館の建物はすべて倒壊し、山手地区の洋館群も壊滅的被害を受け、港湾機能・対外貿易都市としての機能は完全にマヒした。その後、震災復興事業により、日本大通りの拡幅、山下公園の造成、横浜三塔に数えられる神奈川県庁舎や横浜税関庁舎の建設などが行われ、1929年にはほぼ旧状に復した。

昭和時代に入り、1926年4月に第3次市域拡張が行われ、同年10月には区制が施行されて、鶴見区神奈川区、中区、保土ケ谷区磯子区の5区が置かれた。以降も第6次まで続く市域拡張と東京湾岸の埋立により市域は拡大し、市域面積は437.38km²、行政区の数は18区となっている。1930年前後には、現在山下公園に係留されている氷川丸など、豪華客船の就航が相次ぎ、横浜港は太平洋航路の乗船地として、客船黄金時代の一翼を担った。また、この頃の横浜港は、生糸貿易港から工業港へと変貌し、輸出、輸入とも、機械類・金属製品、鉄鋼の割合が高まった。この傾向は、第二次世界大戦中の軍需生産期、戦後の高度経済成長期を経て、より強まっていった。

第二次世界大戦末期の1945年5月29日の横浜大空襲では、磯子区から鶴見区に至る沿岸部が焼き尽くされ、中区、西区の中心市街地は壊滅した。同年8月の終戦によりイギリス軍やアメリカ軍、ソビエト連邦軍を中心とした連合国軍が進駐し、横浜の中心市街地と横浜港は接収され、都市機能は麻痺した。連合国軍は、横浜税関ビルに連合国軍最高司令官総司令部と太平洋陸軍総司令部を置き、軍事拠点とした。空襲とそれに引き続く接収により、横浜の復興は大幅に遅れた。

1950年、横浜国際港都建設法が制定され、復興に向けた取り組みが本格化する。1951年には、対日講和条約が締結され日本の連合国による占領体制が終わり、新たに市長となった実業家で元貴族院議員の平沼亮三の下、接収解除に向けて動き始めた。また、この年には、横浜港の管理が国から市に移管された。条約が発効した翌1952年以降、大桟橋や山下公園などが次々と接収解除された。しかし、なお市域には475万m²余の、連合国軍撤収後も居残ったアメリカ軍の施設が残る。

戦後の発展
1956年9月1日、制度の開始とともに、政令指定都市に指定される。この頃から、相模鉄道を中心とした横浜駅西口の開発が始められた。1959年に行われた開港100周年記念祭では、平和野球場で、横浜出身の美空ひばり草笛光子が3万人の観客を前に歌った。1964年5月には根岸線が開通し、同年10月には東海道新幹線の開業に伴い、横浜線との交点に新横浜駅が開設された。横浜駅西口地下街が完成したのもこの年で、横浜駅西口は急速に発展し始めた。また、1960年代後半には中区の元町商店街が活況を呈し、元町ブランドで固めた山手の女子高生たちのファッションは、後に1970年代後半のハマトラブームへとつながっていく。

1963年、日本社会党衆議院議員であった飛鳥田一雄が市長となり、「革新首長」のリーダー的存在となった。1965年1月、飛鳥田市政下の横浜市は、六大事業と呼ばれる都市計画プロジェクトに着手した。これは都心部強化、金沢地先埋立、港北ニュータウンの建設、高速鉄道建設、高速道路建設ベイブリッジ建設の6事業からなり、都市基盤の整備と中枢管理機能の充実を図るものである。

まず、高速道路建設に取りかかり、1968年には神奈川県道高速横浜羽田空港線が開通する。1972年には横浜市営地下鉄が開通した。また、1979年には横浜横須賀道路日野―朝比奈間が開通し、1981年には狩場―日野間を、1982年には朝比奈―逗子間と逗子―衣笠間を供用開始した。

1977年には金沢地先埋立が完成し、1990年に大黒ふ頭の埋立が完成すると、横浜の東京湾沿岸における大規模埋立事業は一段落した。日本社会党委員長として国政に復帰した飛鳥田のあとを受けて、1978年に市長となった細郷道一も、六大事業の推進に力を注いだ。1980年には港北ニュータウンの入居が始まり、1985年には人口が300万人を超えた。

1989年、市制100年と開港130年を記念して、横浜博覧会が開催された。同年には横浜ベイブリッジも開通し、1994年の鶴見つばさ橋開通とあわせて、首都高速湾岸線の整備・延伸が進んだ。1990年、急逝した細郷のあとを引き継いで市長となった高秀秀信は、六大事業の中心となる都心部強化、横浜駅周辺地区と関内地区の間をつなぐ横浜みなとみらい21地区の整備を本格化させた。1993年には、みなとみらい21地区のシンボルとなる横浜ランドマークタワーが完成した。

高秀は、六大事業に加えて、新たな大型公共事業計画の立案に邁進した。中でも1998年に完成した横浜国際総合競技場横浜国際プールは、高秀市政の象徴となる。2002年には、国際総合競技場で2002 FIFAワールドカップの決勝が行われ、国際プールではパンパシフィック水泳選手権が行われた。また、2002年には、横浜港に大さん橋国際客船ターミナルが完成した。

2002年、高秀と争って新たに市長となった中田宏は、これまでの大型プロジェクトを中心とする市政運営を改め、財政再建を基本に据える政策を打ち出した。市民の負担を伴う財政再建策も進められる中、2008年度(平成20年度)には、1961年度以来47年ぶりに、普通交付税の不交付団体となるなど、その成果も徐々に見られ始めた。

2009年、開港150周年・市制施行120周年を迎え、横浜市などが設立した財団法人横浜開港150周年協会が中心となって、様々な記念事業・祝祭イベントが行われた。同年4月28日から9月27日まで横浜みなとみらい21新港地区で開国博Y150が始まり、4月19日には横浜動物の森公園で第20回全国「みどりの愛護」のつどいが開催された。5月31日にはパシフィコ横浜国立大ホールにおいて、天皇皇后両陛下、内閣総理大臣など三権の長らを招いて、横浜開港150周年記念式典が挙行された。このほか、開港150周年を記念したプロジェクトとして、「象の鼻」地区を中心とした広場や緑地の整備、「開港150周年の森」づくり、横浜マリンタワーの再整備、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校の開校などが実施された。また、同年7月には任期途中で中田が市長職を辞任し、第45回衆議院議員総選挙と同じ同年8月30日に行われた市長選挙で、東京日産自動車販売代表取締役社長の林文子が新たな市長に選ばれた。

2010年11月13日〜14日に、2010年日本APECの参加国首脳会議の会場になる。