横浜市の人口を知る

横浜市の人口は、1942年に100万人を超え、戦時中は減少したものの、1951年に再び100万人を超え、1968年に200万人を超えて名古屋市を抜き、1978年には大阪市を抜いて東京都区部に次ぐ大都市中第2位となり、1985年には300万人を超えた。現在は、3,680,415人と、全国の市で最も多くなっている。市の人口が多い理由は、市域面積が大きいこと(横浜市の面積は、神奈川県の総面積の18.0%を占め、市人口第2位の大阪市の面積の約2倍にのぼる。)や、山地湖沼が少ないことなどが挙げられる。また、第二次世界大戦後に急速に人口が拡大した理由は、戦後復興に伴い京浜工業地帯や関内駅横浜駅周辺など東京湾沿岸部の商工業が発展したことや、高度成長期以降に顕著となった東京一極集中により、地方から都市部への人口流入が進んだこと、市郊外の私鉄沿線に沿って宅地開発が進み、ベッドタウンとしての性格も持つようになったことなどが挙げられる。特に、横浜都心に直接接続しない田園都市線沿線の開発は、横浜に住んで東京に通勤通学する横浜都民の増加をもたらした。平成12年度の国勢調査によれば、横浜市の昼夜間人口比率(常住人口に対する昼間人口の比率)は90.5%となっている。横浜市の昼夜間人口比率は長らく低落傾向を示していたが、1990年代初めに底を打って以来、上昇傾向に転じた。

行政区別の人口が最も多いのは港北区の323,358人[34]で、以下、青葉区300,444人、戸塚区271,722人、鶴見区269,538人と続く。人口の最も少ない区は西区で91,888人、以下、栄区124,750人、瀬谷区126,875人、中区143,764人と続く。


▼市政
横浜市の財政状況は、2008年度の決算によれば、歳入は1兆4,364億円、歳出は1兆3,629億円となっている。地方公共団体の財政の健全化に関する法律(財政健全化法)に定める指標のうち、実質公債費比率は20.2%、将来負担比率は261.1%で、いずれも国の定める早期健全化基準等を下回っている。歳入決算の主な項目の構成比は、市税50.8%、国庫支出金14.9%、諸収入9.6%、市債9.0%、県税交付金3.9%。市税収入は7,295億円で、西区、神奈川区、中区、鶴見区港北区の5区からの税収が、市全体税収の約52.2%を占める。また、歳出決算の主な項目(性質別)の構成比は、義務的経費が合計46.7%(扶助費17.7%、人件費15.2%、公債費13.8%)、普通建設事業費14.7%、物件費9.8%、補助費11.6%、貸付金8.6%、繰出金6.6%などとなっている。経常収支比率は94.7%、財政力指数は1.00で、政令指定都市18市中、それぞれ第9位、第5位となっている。

横浜市の当面の課題としては、幹線道路整備の遅れ(都市計画道路整備率は、平成21年3月31日現在、64.8%)による市内各拠点と郊外住宅地を結ぶ体系化の未達、低い昼夜間人口比率(平成17年国勢調査によれば、90.4)、市域の一体的な発展などがある。都市基盤整備や地域経済圏の確立が遅れた地域もあるため、市内の一体感に乏しいとも指摘されている。直面する課題に向けた政策推進力が求められている。


▼国政・県政
横浜市に置かれる国の機関は以下の通り。横浜市に置かれる各省庁の地方支分部局のうち、関東地方(もしくはそれよりも広い地域)を統括するものは、国土交通省関東地方整備局(港湾空港部)・関東運輸局、海上保安庁第三管区海上保安本部など、数少ない。それらの多くは中区山下町の横浜地方合同庁舎、もしくは中区北仲通の横浜第2合同庁舎(旧生糸検査所)に所在する。

▼地域
東京、川崎から続く市域の沿岸部には、京浜工業地帯が広がる。埋立地を中心とした地域には、鉄鋼業や化学工業などの大規模工場や、火力発電所が多く、内陸部にかけた地域は、部品や食品などの中小規模事業所が多い。横浜駅鉄道路線を集中したため、商業の中心地は関内地区から横浜駅周辺へと移っている。そのためもともとの中心地であった伊勢佐木町や関内の相対地位が低下しており、その中間に位置する「みなとみらい21横浜ランドマークタワー他)」を整備することで都心の一体化を目指している。また、新幹線駅を持つ新横浜を始め、上大岡、戸塚、二俣川・鶴ヶ峰、鶴見、港北ニュータウンなど、副都心としての機能を持つ街の整備を図り、都市機能の集積や地域経済強化に注力している。

NTT市外局番はほぼ全域が「045」。ただし、青葉区奈良町のごく一部に「042」(相模原MA)、鶴見区尻手のごく一部に「044」地域がある。

▼経済
横浜経済の特徴としては、市外からの所得が東京特別区及び12政令都市の中で最大となっていることが挙げられる。また、市内総生産と市内最終需要を比較すると需要が供給を上回っており、移入超過となっている。

市内総生産
横浜市の市内総生産は、12兆6814億円。これは、神奈川県シェアでは41.2%、全国シェアでは2.5%となる。また、この規模を都道府県と比較すると10位の静岡県と11位の茨城県の間に位置し、OECD諸国と比較すると24位のポルトガルと25位のチェコの間に位置する。他の政令指定都市との比較では、大阪市の約6割の規模であり、名古屋市とほぼ同じ。
内訳は、第一次産業が119億円 (0.1%)、第二次産業が2兆7473億円 (21.7%)、第三次産業が10兆4379億円 (82.3%) となっている。他の政令指定都市と比べ、第一次産業の額と第二次産業の建設業の割合、第三次産業の不動産業の割合が大きく、第三次産業の金融・保険業、卸売・小売業、サービス業の割合は小さいが、第三次産業は名古屋とほぼ同じ。

市民所得
横浜市の市民所得は11兆3077億円で、一人当たりでは320万6千円(平成15年)。これは、国民所得を100とすると110.9となる。
市民所得のうち雇用者報酬は9兆5924億円で、市民所得に占める割合は84.8%。これはいずれも政令指定都市の中で第1位である。市民所得のうち企業所得は1兆5427億円で、市民所得に占める割合は13.6%。政令指定都市中、額では第3位であるものの、割合では最下位の第12位となっている。
また、市民所得全体のうち、市外からの所得は2兆4727億円となっている。これは、市内から市外へ通勤する人の数が、市外から市内へ通勤する人の数より多いことを示している。2000年(平成12年)の国勢調査によれば、移動人口は、東京都区部川崎市に対する流出超過となっている。

市内総支出
市内総支出は12兆6814億円。他の政令指定都市との比較では、家計の最終消費支出が大きいことが挙げられ、その額は8兆7137億円と大阪市の1.6倍の規模である。横浜市の民間住宅投資は7372億円で、政令指定都市中第1位。民間企業設備投資は1兆5810億円で、第1位大阪市の約6割の規模。公共投資は5208億円で、名古屋市に次ぐ第2位。

労働力・就業者数等
横浜市労働力率は62.0%となっている。これは全国平均並みで、政令指定市の中では第8位、首位の川崎市 より4.1ポイント少ない。
また、完全失業者数は97,464人、完全失業率は5.3%となっている。これは政令指定市のうち、広島市静岡市に次いで、3番目に低い。

戦後、第1次産業の就業者数、就業者割合は一貫して減っている。第2次産業の就業者数および就業者割合は高度経済成長期に拡大。その後は産業構造の転換により、数の上では増減したものの割合は減少している。第3次産業の就業者数は一貫して増加しており、就業者割合も昭和35年を除いて常に拡大している。平成17年には就業者割合が74.8%に達した。

平成17年の産業別就業者割合を全国平均と比較すると、農業(全国4.4、横浜0.5)と製造業(全国17.3、横浜13.6)が低く、情報通信業(全国2.6、横浜6.6)とサービス業(全国14.3、横浜17.9)の割合が高くなっている。

市域は、鎌倉に鎌倉幕府が開設された12世紀から本格的に開発が始まった。鶴見川や柏尾川などの河川流域では農業が発達し、13世紀前半には、現在の新横浜周辺地域にあたる小机郷鳥山から、多摩川鶴見川周辺地域が、幕府によって大規模に開発された。

横浜の名の初出は、室町時代中期の1442年の文献である。この年、平子氏の家臣と思われる市川季氏と比留間範数の両名が、石河宝金剛院に、横浜村の薬師堂免田畠を寄進する旨の文書が残されている。横浜村は武蔵国久良岐郡に属し、神奈川湊の対岸、現在では市政の中心街になっている関内地区にあたる地域にあった。

江戸時代末期までの横浜村は、前出二つの湊とは対照的に、戸数わずか100戸足らずの砂州上に形成された半農半漁の寒村であった。

▼ 神奈川開港と都市横浜の誕生・発展
横浜村の運命を一変させたのは、当時国交を持たなかったアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船の来航であった。太平洋航路の拠点として、また、捕鯨の際の供給基地として日本の港を利用することを望んだアメリカ海軍の黒船一行は六浦藩小柴村沖に無許可のまま2か月間投錨し、幕府の対応を待った後に横浜沖へと進み入り、その後幕府は横浜村に設営した応接所で外交交渉を行った。交渉の結果1854年に横浜村で日米和親条約が締結され、1858年(安政5年)には神奈川沖・小柴のポウハタン号上で日米修好通商条約が締結された。この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことが、横浜の都市開発の発端となった。

幕府は、東海道に直結し当時既に栄えていた神奈川湊を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地とした。横浜村には、短期間で居留地深谷市在の笹井万太郎により波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられ、安政6年6月2日に横浜港は開港した。横浜市では、6月2日を開港記念日としている。こうして、横浜は日本の玄関口の一つとなったことから、様々な文物をいち早く取り入れる国際色豊かな都市として発展し始めた。

横浜村は幕府が設置した運上所を境に、以南を外国人居留地、以北を日本人居住区とした。境界には関所が置かれ、関所から外国人居留地側を関内、以外を関外と呼んだ。外国人居留地には、イギリスやフランス、ドイツやアメリカを中心とした各国の外国商館がたち並んだ。今に残る横浜中華街は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源とする。一方日本人居住地は横浜町と名付けて5区域に分割し、各区域に名主を置いて総年寄が町全体を統括した。明治6年横浜町は第1区1番組に編入され、明治7年6月14日大区小区制により第1大区1小区となり、1878年11月21日に郡区町村編制法に基づき、第1大区が横浜区となり、久良岐郡から分離して横浜区長が管轄することとされた。そして、1889年4月1日、市制が施行されると同時に横浜区は市となり、横浜市が誕生した。当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4km²。面積は狭いものの、市制施行当時、すでに戸数27,209戸、人口121,985人に達した。その後、関内地区は市政と商業の中心地として発展する。

開港当初の横浜港には、東波止場と西波止場が設置され、東西波止場はその形から「象の鼻」と呼ばれた。象の鼻は、現在の大さん橋の付け根部分にあたる。ここでの貿易は、生糸、茶、海産物が輸出され、絹織物、毛織物が輸入された。明治5年9月12日には、新橋と横浜をつなぐ鉄道が開業し、新橋・横浜それぞれの会場で盛大に開業式典が執り行われた。同年には、神奈川駅鶴見駅も開設されている。当時、生糸貿易の主導権は外国商館にあった。そのため、横浜商人と呼ばれた日本人貿易商は、1873年には生糸改会社を設立して競争力を高め、1881年には生糸荷預所を設立して生糸貿易の主導権確立に努めた。また、横浜商人たちは、県営水道の設備横浜共同電灯会社の設立、十全病院の設立、生糸検査所、商業会議所の設立など、都市基盤の整備と商業の発達に大きく寄与した。

1909年には開港50周年を迎え、この年の7月1日から3日間にわたって、横浜開港50年祭と銘打った数々の記念行事が催され、「全市は殆ど家族打連れて外出せしやの観あり」と伝えられた。できたばかりの新港埠頭で行われた式典では、森鴎外の作詞による横浜市歌が、市内小学生の合唱によって初めて披露され、各国艦船は祝砲を放った。また、このとき、市章の「浜菱」が制定され、市民の寄付による開港記念横浜会館竣工。現・横浜市開港記念会館、ジャックの塔)の建設が計画されるなど、市制施行20周年とあわせて盛大に祝われた。大正時代に入ると、鶴見川河口の埋立が始まって京浜工業地帯が形成され始め、横浜港は工業港としての性格をも持ち始めることとなる。