ホエールズ時代は

1978年、国土計画の主導で横浜市中区に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置など営業体制の改革を伴った改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球株式会社クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(東京放送)へ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。1980年プロ野球ドラフト会議で地元横浜高校の左腕エースで夏の甲子園優勝投手愛甲猛を1位指名したがロッテオリオンズに交渉権奪われ外れ1位で京都府立峰山高等学校のエース広瀬新太郎獲得1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎え、長嶋の長男一茂をドラフト1位指名したが長嶋招聘は失敗した。ジュニアと呼ばれた関根浩史投手の入団について日産野球部との交渉が破談した。1982年10月18日の田尾五打席敬遠を中継したフジテレビジョン『月曜ナイター 大洋×中日』が球団主催試合歴代トップ[9][10]となる番組平均世帯視聴率36.5%を記録した。1983年シーズン途中、タイドウォーター・タイズでプレーしていた若菜嘉晴捕手を獲得。エース遠藤のフォークボールをノーサインで受けるテンポの良い野球が好評だった。遠藤一彦はエースとして連年の200イニング以上登板を記録し、当時読売ジャイアンツに在籍したクロマティからメジャーリーグで活躍できる選手と称された。1985年近藤貞雄が監督に就任。スーパーカートリオを売り出し注目された。遠藤、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、3年間で1度もAクラス入り出来ないなど、成績は振るわず。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえる。1990年須藤豊が監督に就任。この年にチームをAクラスへ導くも、1992年開幕早々に辞任し、江尻亮チーフコーチが監督代行。のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。江尻政権下で盛田幸妃佐々木主浩のダブルストッパーを確立。1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「ベイスターズ」となった(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という迷信もあった)。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された。翌年訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心だった大洋漁業ホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしていたエピソードがある。

ベイスターズ時代
本拠地の横浜スタジアムでの応援の様子1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。高木豊屋鋪要市川和正ら主力選手が大量解雇された。駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。1994年、獲得した駒田の他、佐伯貴弘波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。フロントにおける近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。鈴木尚典が3番レフトに定着。1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位・ヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず37年ぶりのリーグ優勝を逃す。勝利への執念が選手に根付き、翌年の快進撃につながる事となった。大矢監督は快進撃をサポートしつつも2年契約を終えオフに辞任。1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い38年ぶりのリーグ優勝・日本一を果たした。佐々木の愛称にちなみ大魔神社が建立される。10月8日の優勝決定を佐々木は「ベストゲーム」としている。明治神宮野球大会春の甲子園夏の甲子園・かながわ・ゆめ国体の4冠制覇した高校野球史上最高の投手で相思相愛の松坂大輔を1位指名したが抽選漏れ(外れ1位で豊田大谷高校の主砲で翌夏浜スタで開催のジュニアオールスターゲームMVP獲得する古木克明を再指名、さらに松坂の横浜高校同級生の小池正晃も5位指名で獲得)。1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。 2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては後述)2002年、開幕から記録的な低迷を続け森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。1月26日に親会社(筆頭株主)がマルハからニッポン放送に変更する予定だったが、当時ニッポン放送の関連会社であったフジテレビがヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(東京放送。現:東京放送ホールディングスTBSHD〕)への移行がプロ野球オーナー会議で承認され、球団オーナーが当時のTBS社長砂原幸雄となった(詳細は筆頭株主交代の節を参照)。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、1978年以降ニッポン放送に独占中継権を押さえられていたため喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。同時間帯のレギュラー番組『サタデー大人天国!宮川賢のパカパカ90分!!』(現在の『パカパカ行進曲!!』)ならびに『伊集院光 日曜日の秘密基地』の好調により1シーズンで終了。2つあった応援団が統合し全国星覇会が発足。2003年、待望の生え抜き監督山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、45勝94敗1分という惨憺たる成績で、シーズン90敗到達は日本プロ野球では1970年のヤクルト以来実に33年ぶりであった。2004年、4月終了時点で首位に立つが、その後投手陣の不振により徐々に失速、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗退しカープと勝率0.00092(9毛2糸)差という超僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。2005年、牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。2006年、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、主力野手陣の相次ぐ不調・故障などにより、4・5月に低迷。6月以降は、共に福岡県東福岡高校出身である村田修一吉村裕基らの若手野手の台頭、牛田成樹など若手投手の起用もあったが、負け越して最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島監督は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、2年で監督が交代することとなった。4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを設立し、活動を開始した。理事長はOBの平松政次、副理事長は畠山準が就任した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。12月1日、資本金を6億5,000万円から1億円へ減資する。