横浜ベイスターズについて

横浜ベイスターズは、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。二軍(イースタン・リーグ所属)は同県横須賀市にある横須賀スタジアムを本拠地としている他、同市内には練習場及び合宿所として横浜ベイスターズ総合練習場を有する。横浜ベイスターズ本拠地以外の主催試合に関しては、横浜ベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。1954年12月11日に商号を株式会社大洋松竹球団から株式会社大洋球団に改称。1993年4月に商号を株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズへ改称。

下関、大阪、京都時代
元は大洋漁業(現・マルハニチロ水産)の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球大会などに出場、1948年に国体で優勝して一躍名をあげる。1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団である毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市フランチャイズ下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。この当時は、福岡県に西鉄クリッパーズ西日本パイレーツ(1951年合併で西鉄ライオンズに)、山口県大洋ホエールズ広島県に広島カープと、3県連続で球団が存在した(当時は大阪府には近鉄パールズ南海ホークスが、兵庫県には大阪タイガースと阪急ブレーブスが存在していたため、岡山県を飛ばした形で球団が存在したことになる)。

本来、社章と同じの「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている。1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、9月には事務所を下関市から東京都千代田区に移転。読売ジャイアンツからベテランの中島治康・平山菊二を、大陽ロビンスから藤井勇・林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清長持栄吉・片山博らを、阪急ブレーブスからは宮崎剛・今西練太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さは如何ともし難く1年目の1950年は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決めの該当球団となった松竹ロビンス対等合併に合意し、大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。

球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併により正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。当時の会社名は株式会社大洋松竹球団。川崎時代1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転した。川崎市川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、成績は松竹との合併前よりもさらに低迷。明大五人衆の筆頭、エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、また読売ジャイアンツから獲得した青田昇が三度の本塁打王を獲得するも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位に沈んだ。1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人近藤昭仁と、シーズン中に近鉄パールスから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。

日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利でストレート勝ちし、日本一に輝いた。1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、その後は優勝から遠ざかることとなる。メガトン打線と呼ばれる強力打線や、近藤和彦クリート・ボイヤー桑田武・松原誠・平松政次ジョン・シピンといった名選手を擁したものの、チームとしての総合的な戦力が低く、1965年以降、チームの勝率は1969年-1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の読売ジャイアンツに打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋ホエールズだった。それも両翼89m、中堅118mという川崎球場の狭さと無縁では無い。しかし、桑田武ジョン・シピン、松原誠など主軸打者の多くが後に読売ジャイアンツにトレードされていった。1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜における新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋により国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。

これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。1977年、オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。松原・米田慶三郎といった守備の名手に加え、ボイヤー-シピン-ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980代に入っても山下、基のち高木に鉄壁の二遊間は受け継がれてゆく。この頃「セカンドが逆シングル捕球からショートにトス、クィックにワンバウンド送球でランナーアウト。」といったプレイを実際に行っていた。