38年の空白

横浜のリーグ優勝は2回。大洋時代の1960年に初優勝を果たしたものの、2度目の優勝はベイスターズと名前を変えてからの1998年。この間、実に38年間ものブランクを要したが、初のリーグ優勝を果たした後の1962年と1964年は終盤まで阪神タイガースと熾烈な優勝争いを繰り広げている。特に1964年は、残り2試合で1勝すれば4年ぶりの優勝を果たすところまで粘り、阪神甲子園球場での直接対決を迎えた。ところが、試合当日は小雨だったものの、阪神側の意向で試合は中止になった(試合開始前の開催か中止かの判断は主催チームが行う)。その後、阪神は破竹の9連勝を遂げ、8試合目の対中日ドラゴンズ戦で逆転優勝を果たした。当時、大洋の正捕手として活躍していた「明大五人衆」の一人、土井淳は後に「この2年間のどちらかに優勝していたら、38年も(優勝から)遠ざかることは無かったと思う」と語っている。

荒川事件
1969年のドラフト会議で、早稲田大学荒川尭に対する大洋の強行指名が発端となって起きた、ドラフト史上最大とされる事件(荒川事件)。荒川は当初、大洋への入団を拒否、その後の経過では熱狂的な大洋ファンと目される者による荒川への傷害事件まで発生するが、後に荒川は形式的に大洋へ入団し、ヤクルトアトムズに移籍してプロ野球選手として活動するも、傷害事件の後遺症とされる視力障害により早々に選手生命を絶たれた。この事件が原因となって、「横浜ベイスターズ」となってからも、2008年に松本啓二朗細山田武史を指名するまでは早稲田大学在籍の選手をドラフト指名する事はなかった。

湘南電車カラーのユニフォーム
1974年-1977年のシーズンに使用されたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使用していたため、湘南電車を髣髴とさせるその配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」といわれた。このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は静岡県草薙総合運動場硬式野球場でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡出身の山下がドラフト1位で入団したため、ヘッドコーチだった秋山登が「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。
田尾五打席敬遠
1982年、長崎慶一首位打者争いでトップを走っていたが、中日ドラゴンズ田尾安志は長崎に6厘差で迫っていた。中日にとってはシーズン最終戦となる試合で、大洋は田尾に対して5打席連続敬遠を行った。この大洋の行為に対し、田尾は5打席目で敬遠球に対し抗議の意味を込めた空振りを行ったほどだった。一方の長崎はこの試合を含め欠場し、最終的に長崎は首位打者となった。敬遠行為そのものは、この他にも特定の打者への全打席敬遠の例が多数存在し、ルール上認められる行為でもある。ところが、この試合は長崎と田尾の首位打者争いよりもはるかに重要な意味がある試合であったため、この5打席連続敬遠が大きな災いを招く事となる。この試合前の時点で中日は、全日程を終了していた読売ジャイアンツとゲーム差0で並んでいたため、中日が勝てば中日の優勝、大洋が勝てば巨人の優勝と、リーグの優勝が掛かった大一番だった。しかし大洋は田尾に対し5打席連続敬遠を行い、走者となった田尾をあっさり生還させてしまうなど大差で敗れ、中日の優勝が決まった。大洋の勝利よりも個人記録を優先した行為に対し、納得できない多数のファンが試合後に「イニングの先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。「田尾の敬遠だけでは故意に失点させたとはいえず、敗退行為には当たらない」「過去の全打席敬遠の試合との整合性を考慮すると、特定の試合だけを敗退行為として認めるわけにはいかない」など反論され抗議は退けられたが、一段落した後も、世論はこの大洋の行為に「アンチ巨人だが、さすがにあれは巨人ファンに同情した」「中日ファンとして素直に喜べない優勝だ」などといった疑問を投げかけ、宇佐美徹也は自身の著書「プロ野球データブック」で大洋の行為を糾弾した。当時監督だった関根潤三は、その後フジテレビの野球解説者として、解説者となった田尾と再会し、「当時の大洋では個人成績だけがニュースになる状態だった」と敬遠へ至った経緯を説明、「時々、あの敬遠の場面を夢に見て目を覚ますことがある」とも打ち明けた。これ以降、関根と田尾との関係が修復された。

1995年のオールスターファン投票
1995年のオールスターゲーム横浜スタジアムで開催されることとなった。これに当時の球団社長らは、ゲームを盛り上げるためにファンに対してファン投票への参加を呼びかけた。ところが、これが大量の「組織票」を発生させる結果となってしまい、本拠地開催となった横浜からは佐々木主浩駒田徳広ロバート・ローズ佐伯貴弘グレン・ブラッグス畠山準の6人が選出されたため、批判の的となった(他の3名は古田敦也江藤智野村謙二郎)。特に佐伯と畠山に至ってはノミネートこそされていたものの、選出時点ではスタメンを波留敏夫鈴木尚典に譲ることが多く、レギュラーとは言えなかったため、当人たちも困惑気味だった。試合では、通常は抑えの佐々木が先発し、誰にも踏み荒らされていないマウンドで投球する珍しい光景が見られた。

プロ野球脱税事件と緊急補強
1997年にプロ野球選手による脱税(プロ野球脱税事件)が発覚し、横浜からは波留敏夫万永貴司・川崎義文・米正秀が関わっている事が判明した。特にリードオフマンで特攻隊長的役割を担っていた波留の離脱が予想されることは、優勝争いを行う上でも大きな痛手となるため、外野手の補強が急務となった。そこで、先発転向後2年間結果が出なかった盛田幸希とのトレードで、大阪近鉄バファローズから中根仁を獲得した。開幕当初こそ井上純やホセ・マラベなどがスタメンに名を連ねていたが、中根は「左殺し」として左投手先発時のスタメンや、左投手への代打の切り札として1998年の優勝に貢献した。波留も6週間の出場停止が解けると、二軍での調整も一切禁じられていた球団の方針だったにも関わらず、権藤博によってぶっつけ本番でスタメンに復帰する。復帰当初こそ、無調整の状態から結果を残せなかったが調子を取り戻し、7月の月間MVPに輝くなど奮起した。ヒーローインタビューでは「今日のヒーローは波留選手です」というインタビュアーの声と同時に「ヤッター」と自らを鼓舞し、事件の反省をしたのか、感涙と戒めの男泣きを憚り無くお立ち台で見せた。
2001年と2005年の順位
2001年のみセ・リーグの順位決定方法が通常と異なっていた。勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定し、勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによるプレーオフでリーグ優勝チームを決めることにした。その2001年、横浜は69勝67敗4分けで、広島は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で決めていたため、勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラス入りした。この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすいという結果となり、実態が分かりづらいなどの理由からわずか1年で「勝率順」に戻した[39]。2005年は順位決定方法が勝率順に戻っていたため、69勝(70敗7分け、勝率.496)の横浜が3位、71勝(73敗2分け、勝率.493)のヤクルトが4位となった。