血の入れ替えを断行。

シーズンオフには投手陣強化のため、毎年のように故障続きで戦力として計算しにくい多村仁ソフトバンクに放出し、寺原隼人を獲得。数年前から毎年のように移籍が噂されていた巨人の仁志敏久を、小田嶋正邦+金銭のトレードで獲得する。この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が年俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍。激動のオフとなった。また「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部にて監督を務めた村上忠則が就任。2007年、10年ぶりに大矢明彦が監督に復帰。FA移籍した門倉健人的補償として、当時215勝を挙げ、43歳にして未だ健在の工藤公康を獲得。移籍組やベテラン勢の活躍により、前半戦は一時首位に立つなど上位を猛追し3位で折り返す。後半戦は連敗もあり借金を作るが、最終戦前で返済。最終戦に敗れて勝ち越しを逃し4位に終わるが、村田修一の球団日本人選手桑田武以来31年ぶりの本塁打王及び球団初の2年連続100打点や三浦大輔の35イニング連続無失点、寺原隼人の2試合連続完封など主力選手の活躍が目立った。

1月15日、産業能率大学と業務提携し調印することとなる。ファームの湘南シーレックスをスポーツビジネスの授業に取り入れていくことに決まった。3月30日〜4月13日、プロ野球新記録となる開幕から黒星と白星が交互に続く「ぬけぬけ」が12試合続いた。9月17日、横浜ベイスターズとなってからの初代オーナー中部慶次郎(1993-2002。大洋時代も含めれば1990-2002)が逝去。2008年、開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗する。その後も低迷を続け、2年ぶりの最下位に終わり、貯金もなかった。この年に飛躍した内川に加えて、村田・吉村の強力クリーンアップをもってしても投手陣が壊滅的で最下位に沈み2003年以来5年ぶりの90敗も記録した。内川の打率(.378)がチーム勝率(.338)を上回るという2リーグ分裂後では初となる珍記録も記録された。ヘッド兼打撃コーチの弘田澄男、投手チーフコーチの斉藤明夫、外野守備走塁コーチの青山道雄、走塁コーチの高橋雅裕の4コーチを解任とした。

正捕手の相川亮二がヤクルトにFA権を行使し移籍した。CS放送の本拠地での中継権利をJsportsからTBS運営のTBSニュースバードに移行。2009年、WBCでの村田の離脱や、開幕6連敗など成績面で不振が相次ぐ。5月18日、大矢監督の無期限休養を発表(事実上の解任)。同19日からはこれまで二軍監督を務めていた田代富雄が監督代行を務めていたが、落ち切ったチームを浮上させることができず、2年連続の最下位となり、前年同様1度も貯金はなく、一軍の監督代行の職が解かれ、今季のシーズン終了後には再び二軍監督に就任した。11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫を迎え入れ、横浜港を周遊する「マリーンルージュ」で就任記者会見を行った(船上での監督就任会見はプロ野球史上初)。ヘッドコーチには島田誠が就任。 オフに若林オーナーの命令で選手の育成に限界を感じ、大規模な補強を唱える。11月9日に千葉ロッテマリーンズ清水直行を、斉藤俊雄那須野巧との交換トレードで、11月12日に元ロッテで2007年からはNOMOベースボールクラブに所属していた杉原洋を、11月25日には北海道日本ハムファイターズ稲田直人坂元弥太郎・松山傑を、加藤武治松家卓弘・関口雄大との交換トレードで獲得。

同日にロッテからFA宣言をしていた橋本将、更に11月27日にはソフトバンクから戦力外通告を受けていた篠原貴行を、12月14日にロッテの早川大輔を金銭トレードで獲得、12月17日には日本ハムから自由契約になっていたターメル・スレッジと新外国人クリス・ブーチェック、ホセ・カスティーヨを獲得した。開幕直後には日本ハムから江尻慎太郎石井裕也とのトレードで、またソフトバンクからは井手正太郎吉川輝昭とのトレードで獲得、さらにメキシカンリーグのチームから戦力外となっていた大家友和マイナーリーグでプレーしていたブレット・ハーパーを獲得するなど6月26日現在で新戦力は23名にも上った。2010年、前年まで4年間、読売ジャイアンツの投手チーフコーチを務めていた尾花高夫を監督に迎えた。3月31日、巨人戦の勝利で順位を3位タイとする。同時に広島が単独最下位となったが、横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)となり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日-2007年3月24日、262試合)を更新してこの日ストップした。

しかし、交流戦以降は低迷し最下位に転落。一度も浮上することもなく9月7日の巨人戦の敗戦で5年連続のBクラスが確定、9月25日の中日戦の敗戦で3年連続の最下位が確定、9月28日のヤクルト戦の敗戦でプロ野球史上初の3年連続90敗、10月6日の阪神戦の敗戦で130試合制だった1955年(130試合制)以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。8月、2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を、一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことが、プロ野球実行委員会で承認された。9月30日、TBSHD保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループとの間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ[15]、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSHDとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し“大筋で合意しており10月中に正式決定”とコメントしていたが、実際の交渉は難航。結局10月下旬、TBSHD住生活グループとの交渉を打ち切り[17]、同月27日TBSHDが2011年度も球団を保有することを発表するに至った。

交渉決裂の理由としてはTBSHD及び住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としているものの、同月28日加地隆雄球団社長は、秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、新潟、草薙(静岡)、京都と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにした。又同日潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった」と理由を述べた。 ヘッドコーチの島田が1年で辞任し2軍監督の田代はフロント入りを打診されるも退団し投手コーチの野村弘樹も退団した。一軍ヘッドには、日本ハムのフロントだった岡本哲司が就任。一軍打撃コーチには1998年リーグ優勝・日本一の時に打撃コーチを務めていた高木由一が8年ぶりに就任し、一軍投手コーチには木塚敦志、2軍監督には白井一幸が就任した。北海道日本ハムからFA権を行使した森本稀哲を獲得。内川はFA権を行使し福岡ソフトバンクへ移籍した。また、オリックス・バファローズの一輝を野中信吾・桑原謙太朗の交換トレード、同じくオリックス山本省吾喜田剛寺原隼人高宮和也との交換トレード、埼玉西武ライオンズ大沼幸二坂元弥太郎との交換トレードで獲得した。

ホエールズ時代は

1978年、国土計画の主導で横浜市中区に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置など営業体制の改革を伴った改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球株式会社クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(東京放送)へ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。1980年プロ野球ドラフト会議で地元横浜高校の左腕エースで夏の甲子園優勝投手愛甲猛を1位指名したがロッテオリオンズに交渉権奪われ外れ1位で京都府立峰山高等学校のエース広瀬新太郎獲得1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎え、長嶋の長男一茂をドラフト1位指名したが長嶋招聘は失敗した。ジュニアと呼ばれた関根浩史投手の入団について日産野球部との交渉が破談した。1982年10月18日の田尾五打席敬遠を中継したフジテレビジョン『月曜ナイター 大洋×中日』が球団主催試合歴代トップ[9][10]となる番組平均世帯視聴率36.5%を記録した。1983年シーズン途中、タイドウォーター・タイズでプレーしていた若菜嘉晴捕手を獲得。エース遠藤のフォークボールをノーサインで受けるテンポの良い野球が好評だった。遠藤一彦はエースとして連年の200イニング以上登板を記録し、当時読売ジャイアンツに在籍したクロマティからメジャーリーグで活躍できる選手と称された。1985年近藤貞雄が監督に就任。スーパーカートリオを売り出し注目された。遠藤、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、3年間で1度もAクラス入り出来ないなど、成績は振るわず。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえる。1990年須藤豊が監督に就任。この年にチームをAクラスへ導くも、1992年開幕早々に辞任し、江尻亮チーフコーチが監督代行。のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。江尻政権下で盛田幸妃佐々木主浩のダブルストッパーを確立。1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「ベイスターズ」となった(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という迷信もあった)。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された。翌年訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心だった大洋漁業ホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしていたエピソードがある。

ベイスターズ時代
本拠地の横浜スタジアムでの応援の様子1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。高木豊屋鋪要市川和正ら主力選手が大量解雇された。駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。1994年、獲得した駒田の他、佐伯貴弘波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。フロントにおける近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。鈴木尚典が3番レフトに定着。1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位・ヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず37年ぶりのリーグ優勝を逃す。勝利への執念が選手に根付き、翌年の快進撃につながる事となった。大矢監督は快進撃をサポートしつつも2年契約を終えオフに辞任。1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い38年ぶりのリーグ優勝・日本一を果たした。佐々木の愛称にちなみ大魔神社が建立される。10月8日の優勝決定を佐々木は「ベストゲーム」としている。明治神宮野球大会春の甲子園夏の甲子園・かながわ・ゆめ国体の4冠制覇した高校野球史上最高の投手で相思相愛の松坂大輔を1位指名したが抽選漏れ(外れ1位で豊田大谷高校の主砲で翌夏浜スタで開催のジュニアオールスターゲームMVP獲得する古木克明を再指名、さらに松坂の横浜高校同級生の小池正晃も5位指名で獲得)。1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。 2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては後述)2002年、開幕から記録的な低迷を続け森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。1月26日に親会社(筆頭株主)がマルハからニッポン放送に変更する予定だったが、当時ニッポン放送の関連会社であったフジテレビがヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(東京放送。現:東京放送ホールディングスTBSHD〕)への移行がプロ野球オーナー会議で承認され、球団オーナーが当時のTBS社長砂原幸雄となった(詳細は筆頭株主交代の節を参照)。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、1978年以降ニッポン放送に独占中継権を押さえられていたため喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。同時間帯のレギュラー番組『サタデー大人天国!宮川賢のパカパカ90分!!』(現在の『パカパカ行進曲!!』)ならびに『伊集院光 日曜日の秘密基地』の好調により1シーズンで終了。2つあった応援団が統合し全国星覇会が発足。2003年、待望の生え抜き監督山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、45勝94敗1分という惨憺たる成績で、シーズン90敗到達は日本プロ野球では1970年のヤクルト以来実に33年ぶりであった。2004年、4月終了時点で首位に立つが、その後投手陣の不振により徐々に失速、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗退しカープと勝率0.00092(9毛2糸)差という超僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。2005年、牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。2006年、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、主力野手陣の相次ぐ不調・故障などにより、4・5月に低迷。6月以降は、共に福岡県東福岡高校出身である村田修一吉村裕基らの若手野手の台頭、牛田成樹など若手投手の起用もあったが、負け越して最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島監督は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、2年で監督が交代することとなった。4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを設立し、活動を開始した。理事長はOBの平松政次、副理事長は畠山準が就任した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。12月1日、資本金を6億5,000万円から1億円へ減資する。

横浜ベイスターズについて

横浜ベイスターズは、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。二軍(イースタン・リーグ所属)は同県横須賀市にある横須賀スタジアムを本拠地としている他、同市内には練習場及び合宿所として横浜ベイスターズ総合練習場を有する。横浜ベイスターズ本拠地以外の主催試合に関しては、横浜ベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。1954年12月11日に商号を株式会社大洋松竹球団から株式会社大洋球団に改称。1993年4月に商号を株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズへ改称。

下関、大阪、京都時代
元は大洋漁業(現・マルハニチロ水産)の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球大会などに出場、1948年に国体で優勝して一躍名をあげる。1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団である毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市フランチャイズ下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。この当時は、福岡県に西鉄クリッパーズ西日本パイレーツ(1951年合併で西鉄ライオンズに)、山口県大洋ホエールズ広島県に広島カープと、3県連続で球団が存在した(当時は大阪府には近鉄パールズ南海ホークスが、兵庫県には大阪タイガースと阪急ブレーブスが存在していたため、岡山県を飛ばした形で球団が存在したことになる)。

本来、社章と同じの「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている。1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、9月には事務所を下関市から東京都千代田区に移転。読売ジャイアンツからベテランの中島治康・平山菊二を、大陽ロビンスから藤井勇・林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清長持栄吉・片山博らを、阪急ブレーブスからは宮崎剛・今西練太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さは如何ともし難く1年目の1950年は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決めの該当球団となった松竹ロビンス対等合併に合意し、大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。

球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併により正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。当時の会社名は株式会社大洋松竹球団。川崎時代1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転した。川崎市川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、成績は松竹との合併前よりもさらに低迷。明大五人衆の筆頭、エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、また読売ジャイアンツから獲得した青田昇が三度の本塁打王を獲得するも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位に沈んだ。1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人近藤昭仁と、シーズン中に近鉄パールスから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。

日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利でストレート勝ちし、日本一に輝いた。1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、その後は優勝から遠ざかることとなる。メガトン打線と呼ばれる強力打線や、近藤和彦クリート・ボイヤー桑田武・松原誠・平松政次ジョン・シピンといった名選手を擁したものの、チームとしての総合的な戦力が低く、1965年以降、チームの勝率は1969年-1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の読売ジャイアンツに打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋ホエールズだった。それも両翼89m、中堅118mという川崎球場の狭さと無縁では無い。しかし、桑田武ジョン・シピン、松原誠など主軸打者の多くが後に読売ジャイアンツにトレードされていった。1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜における新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋により国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。

これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。1977年、オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。松原・米田慶三郎といった守備の名手に加え、ボイヤー-シピン-ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980代に入っても山下、基のち高木に鉄壁の二遊間は受け継がれてゆく。この頃「セカンドが逆シングル捕球からショートにトス、クィックにワンバウンド送球でランナーアウト。」といったプレイを実際に行っていた。

大正12年に関東大震災により横浜港は壊滅的な被害を受ける

復興事業は市長・有吉忠一の指揮下、神奈川県と横浜市、生糸商などの横浜商人をはじめとする市民らにより国の力も借りて進められた。この事業により生糸検査所、ホテル・ニューグランド、神奈川県庁庁舎(キングの塔)、横浜税関庁舎(クイーンの塔)や瓦礫を利用して造成した山下公園など今の横浜を代表する建築、名所が造られた。事業のための巨額の資金はアメリカでドル建て市債を発行して賄ったが、この膨大な負債はその後長く市財政を圧迫した。

昭和に入ると京浜工業地帯が形成され、その発展に伴い横浜港は生糸貿易港から工業港となりつつあった。昭和10年、日産は横浜市から買収した埋立地に本社工場を完成させ自動車の生産を始めた。昭和初期は製鉄、造船、自動車、電機などの軍需産業が発展し横浜港はその重要な拠点となった。昭和16年12月には太平洋戦争が始まり、横浜は翌昭和17年4月18日にアメリカ軍から初空襲を受けた。その後、終戦までに横浜は30数回の空襲を受けるが臨海部の工場や港湾施設の被害は比較的軽かった。昭和20年に終戦を迎え、横浜港と横浜の市街地は連合国軍に接収される。特に横浜港の港湾施設はその90%が接収され、横浜の戦後復興を遅らせた。

昭和27年、講和条約が発効し横浜港の接収が解除され始める。先立って昭和25年に接収解除された高島ふ頭を足がかりに京浜工業地帯と横浜の復興は始まり、外国貿易も回復し始めた。輸入の激増により、横浜港の外国貿易量は昭和32年には戦前のピークである昭和12年を上回る。横浜港の輸入品は終戦直後は食料品が占め、後には石油、金属、鉄鉱石、石炭が増加し輸出品は鉄鋼、車両、機械類が占め工業港としての性格を強めた。

昭和43年にはコンテナ専用埠頭である本牧埠頭が造成され、コンテナ船が入港し始める。1970年代にかけ一時世界最大の取扱個数を有していた神戸港と共に、日本着発の国際コンテナ物流を支えた。だが世界規模で急速に進んだ海運のコンテナ化への対応では、東京湾内におけるコンテナターミナル整備で大井埠頭を急速開発した東京港に後れをとった。神戸港阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けた平成7年以降は外貿コンテナ取扱個数で国内首位となったが平成10年に東京港に抜かれ、現在は国内第2位。在来・素材貨物を含む総取扱貨物量では名古屋港と千葉港に次ぐ国内第3位となっている。

横浜港で陸揚げされたコンテナはトラックに載せられ、本町通りを通って各地に運ばれた。そのため、本町通はコンテナ街道と呼ばれるようになった。これにより渋滞が頻発したため本町通を通らずに直接高速道路に入れるよう、横浜港周辺の道路整備が求められた。横浜港を代表する建築となっている横浜ベイブリッジもこの道路整備の一環として平成元年に建造された。

▼現在の横浜港
貨客船定期航路の衰退した1960年代後期以降は定期客船航路が減少する一方、東京港の客船埠頭整備が進み東京港や川崎港がフェリー港としての役割を担った。そのため横浜は日本における主要な旅客港ではなくなり、クルーズ客船の寄港数も常に神戸港東京港・大阪港より少なかった。市内からこの現状を憂う声が挙がり新しい国際客船ターミナルの竣工とワールドカップ日韓大会開催に合わせ、クルーズ客船の寄港誘致に市をあげて積極的に乗りだした。着岸料金の半額を横浜市が負担するなどした結果、平成15年度の横浜港の日本船籍クルーズ客船の寄港数は初めて国内最多となり、現在までその地位を堅持している。ただし外国航路の乗降客数は国際定期航路を有する大阪港や神戸港などに比べると少なく、大阪港の7分の1程度に留まる。また国内航路の乗降客数もフェリー航路を有する神戸港東京港・大阪港の20分の1〜30分の1程度である。

現代の国際海上物流の主流であるコンテナ輸送への対応では本牧埠頭、大黒埠頭、南本牧埠頭で大型コンテナターミナルが相次ぎ建設されたが国内外の大手船会社の再編集約によって1990年代から一部埠頭で空きバースが生じ、それらは自動車船用ターミナルなどに用途転換されている。現在は日本の大手船社が日本国内におけるコンテナターミナルの主力を東京港としているため、日本船社にとって横浜港は東京の補助ターミナルとしての位置づけである。逆に外国船社では世界最大のコンテナ船社、デンマークのマースクラインが同社にとって日本国内最大の物流拠点を南本牧埠頭に構えるなど外国船社主体の利用状況となっている。

▼記念事業
横浜市開港記念会館が建設された。横浜市歌が発表された。

昭和36年には100周年記念事業の一環として横浜マリンタワーが建設された。このマリンタワー灯台でもあるが(灯台としては世界一の高さとしてギネスブックに記載)、多くの観光客でにぎわった。しかし、2006年に集客力が減少したことから一時閉鎖された。

横浜博覧会が横浜市制100周年、および開港130周年イベントとして1989年に開催された。

2009年には、開港150周年記念事業として、マリンタワーの再整備、開国博Y150の開催、象の鼻地区の公園整備など、行われた。

駅の歴史

現在の横浜駅付近は幕末まで海の中であり、明治維新直後に高島嘉右衛門らが埋め立て事業を行い、鉄道が敷設された。海はその後も現在の西口近くに「平沼」として残った。

1872年6月12日 - 品川駅からの鉄道路線が開通し、横浜駅が開業。日本で最初に開業された鉄道駅の一つで、現在の桜木町駅に相当。
1887年7月11日 - 横浜駅- 国府津駅間が開通。新橋駅方面と国府津駅方面を直通する列車は当駅で進行方向を反転していた。
1898年8月1日 - 東海道本線スイッチバック解消のために横浜駅を経由しない短絡直通線が開通。横浜以西への直行優等列車は、横浜の代わりに上りは程ヶ谷駅、下りは神奈川駅停車とし、横浜 - 程ヶ谷間を連絡する小運転列車が設定。
1901年10月10日 - 短絡線上に横浜の人の利便を図って平沼駅(現在の横浜駅に程近い位置)を設置。優等列車神奈川駅と程ヶ谷駅に代わってこの平沼駅に停車。
1914年12月20日 - 京浜間での電車運転開始に伴い横浜側の仮終着駅として高島町駅が開業。
1915年8月15日 - 東海道本線の横浜通過を避けるため、現在の地下鉄高島町駅付近に横浜駅が開業。横浜駅桜木町駅に改称。平沼駅廃止。高島町駅横浜駅京浜線ホームとなる。
1923年
9月1日 - 駅舎が関東大震災で焼失。
9月7日 - しばらくの間仮駅舎を設置して営業。この頃に平沼が完全に埋め立て。
1928年
5月18日 - 東京横浜電鉄線(現在の東急東横線)が開通。
10月15日 - 横浜駅がさらに北側、現在地に移転。東海道本線を現在のルートに変更。神奈川駅を廃止。
この時、横浜駅には汽車線ホームのみが設置され、京浜線ホームは設置されていなかった。そのため、駅の東口に京浜線仮ホームを設置した。また2代目横浜駅も、当駅構内扱いの高島口乗降場として残された。
1930年
1月26日 - 京浜線 横浜〜桜木町間経路変更、横浜駅に京浜線ホームを設置。高島口乗降場閉鎖。
2月5日 - 京浜電気鉄道線(現在の京急本線)が開通。
1933年(昭和8年)12月27日 - 神中鉄道線(現在の相鉄本線)が開通。現在の西口は砂利置き場であった。
1945年(昭和20年)5月29日 - 横浜大空襲により駅設備の大半が焼失。
1957年(昭和32年)12月9日 - 北側自由地下通路供用開始。
1959年(昭和34年)7月16日 - 横浜市トロリーバス横浜駅西口に乗り入れ。
1962年(昭和37年)11月23日 - 東急東横線ホームが島式1面2線から変則相対式2面2線に変更。
1965年(昭和40年)10月1日 - 「みどりの窓口」開設。
1967年(昭和42年) - 東急東横線ホームが変則相対式2面2線から相対式に変更。
1968年(昭和43年)8月31日 - 横浜市電横浜駅西口電停が廃止。
1971年(昭和46年)3月20日 - 横浜市電横浜駅前電停が廃止。
1972年(昭和47年)4月1日 - 横浜市トロリーバス廃止。
1974年(昭和49年)
2月8日 - 相鉄線ホームの改築工事完成(地上2階の4面3線に)。
5月26日 - 京急線ホームが変則相対式2面2線から島式1面2線に変更。
1976年(昭和51年)9月4日 - 横浜市営地下鉄3号線が開通。
1980年(昭和55年)
10月1日 - SM分離(東海道線横須賀線の分離運転)により、横須賀線は現:東海道線ホームから、現:横須賀線ホーム発着となる。
11月7日 - 東口新駅舎・東西自由通路供用開始。
1985年(昭和60年)3月14日 - 横浜市営地下鉄3号線横浜駅 - 新横浜駅が延伸開業。中間駅となる。
1986年(昭和61年)11月1日 - 国鉄駅での荷物取り扱いを廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、国鉄の駅はJR東日本の駅となる。
1995年(平成7年)4月19日 - 横浜駅異臭事件が発生。
1999年(平成11年) - 関東の駅百選に選定。
7月31日 - 京急線の白紙ダイヤ改正による京急蒲田-新逗子間の急行を廃止。
2001年(平成13年)11月18日 - JR東日本ICカードSuica供用開始。
2004年(平成16年)
1月31日 - 東急東横線当駅 - 桜木町間を廃止し、のりばを地下化。きた通路・みなみ通路の供用開始。東西自由通路を「中央通路」に名称変更。
2月1日 - 横浜高速鉄道みなとみらい線が開通し、東急東横線との相互直通運転を開始。
2006年(平成18年)7月22日 - 京急線ホームが島式1面2線から変則相対式2面2線に変更。32年ぶりに上下方向別単式2面2線の構造に戻る。
2007年(平成19年)4月28日 - 横浜市営地下鉄ホームでホームドアの使用を開始。
2010年(平成22年)5月16日 - 京急線ダイヤ改正により、エアポート急行の運行を開始。

▼駅周辺大改造計画
老朽化した建物を解体し高層ビルなどによる横浜駅や駅周辺の一体再開発を目指す。現在は地下で結ばれている東口と西口方面を駅ホーム上空の2階部分で直線に結び、駅前広場や待ち合わせ場所の整備、屋台村の設置、中央通路とダイヤモンド地下街の接続、水上飛行機の発着駅整備、首都高速道路の壁面緑化、河川の有効活用や河川沿岸の整備などを目玉に横浜港開港150周年である2009年に計画がとりまとめられた。開発プロジェクト名も一般公募され、「エキサイトよこはま22」となった。全体の完成は計画策定から20年後を目処にしている。

横浜市都市整備局 エキサイトよこはま22
2010年1月、「エキサイトよこはま22」の横浜市案による20年後の横浜駅周辺を表したイメージ映像が横浜市都市整備局のサイトなどで公開された。この映像は今後の計画検討の際のシミュレーションツールとして利用される予定である。

2010年8月、JR東日本と東急による共同開発計画が発表された。横浜シァルとエクセルホテル東急を建て替え上層部にオフィス、下層部に商業施設などが入る。また、JR線の上部にも8階部まで商業施設棟が作られる計画。建物の高さは約195mの33階建てとなる方針で、2011年着工予定、早ければ2019年の完成を目指す。

京浜急行電鉄

京急線中央改札口のコンコース内は、2008年2月15日に「エキポート横浜」としてリニューアルし、飲食店などのテナントが入居している。また当駅は、「京急駅メロディ」募集の対象駅で、選考の結果、横浜の情景を歌ったいしだあゆみの代表曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」が採用された。なお、上下線でメロディは異なる。ただし当楽曲が流れるのは反転フラップ式案内表示機からのみであり、1番線品川寄りに設置されている案内装置の接近メロディは従来の「6つのレントラー舞曲」のままである。 さらに、東武東上線に使われている発車メロディーが、注意喚起メロディーとして、1分に1回程度鳴っている。

2番線のみホーム中央に場内信号機が設置され、平日朝ラッシュ時の1時間当たり26本という頻繁運転に対応している。駅業務は子会社の京急ステーションサービスに委託されている。駅長所在駅(他社の管理駅に相当する駅を京急ではこう呼称する)として仲木戸駅-当駅間を管理している。当駅には開業当初から退避設備はないが、かつては一部の下り普通が途中駅無停車の下りハイキング特急を退避していた。まず下り線で客扱いをした普通は、一旦品川寄りの渡り線を通り上り線に転線、その後ハイキング特急を退避して、ふたたび下り線に転線していた。途中駅無停車は下りのみで、上りには途中駅無停車の列車はなかった。この渡り線は現在も残されており、新町から回送されてきた当駅始発の列車が方向転換する際に用いられている。この際列車は一旦1番線に入り、その後この渡り線で上り線に転線し、上り線を逆走して2番線に入線、客扱いという形をとっている。また横浜川崎間が不通となった際は、この渡り線を利用して全列車横浜折り返しで運行されることがある。

相模鉄道
改札は2階の端(頭端部)とホーム中程の階段を降りた1階に分かれ、1階の改札は地下鉄駅側と駅ビル(五番街)側の2方向に設置されている。1階の改札と2階の各ホームの間は階段があり、1階の改札と3番線降車ホームとの間にはエレベーターがある。

横浜管区として、当駅 - 平沼橋間を管理している。

2009年8月に発車標と自動放送が更新され、スピーカーも交換された。放送は1・3番線が女声、2番線と到着放送が男声(担当:関根正明)である。

▼利用状況
各社局の利用状況は以下の通りである。
1日平均乗車人員
JR東日本 - 399,633人(2009年度)
同社の駅では新宿駅池袋駅、渋谷駅に次いで第4位。JR全体で見ても新宿駅池袋駅、渋谷駅、大阪駅西日本旅客鉄道)に次いで第5位。神奈川県内の鉄道駅では最も多い。
横浜市営地下鉄 62,569人(2008年度)
同線の駅では最多。
1日平均乗降人員
京浜急行電鉄 314,508人(2008年度)
同社の駅では最も多い。下り方(横須賀中央方面)と他社線とを乗り継ぐ利用者が多く、下り方で輸送密度が高くなっている。
東京急行電鉄 332,002人(2009年度)
同社の駅では渋谷駅に次いで第2位。なお、横浜高速鉄道との相互直通運転による通過人員を含んでいる。
横浜高速鉄道 154,482人(2008年度)
東京急行電鉄との相互直通運転による通過人員を含む。横浜高速鉄道の駅では最も多い。
相模鉄道 437,820人(2008年度)
同社の駅では最も多い。

▼駅周辺
駅周辺は商業ビルが林立し、横浜最大の繁華街となっている。また西口・東口とも数階層にわたる複雑な地下街を有し、周辺のビルと直結している。駅舎移転当時からの玄関口にあたる。商業施設の少ない時期もあったが、地下街横浜ポルタとそごう横浜店の開店以降は盛り返している。

2008年時点で東口で最も高いビルは横浜スカイビルであるが、これは東口再開発に伴って建て替えられた「2代目」であり、初代スカイビルは最上階に回転する展望台とレストランが特徴的の複合高層ビルであった。

横浜新都市ビル2階部分から日産自動車グローバル本社ビル(みなとみらい方面)とを結ぶペデストリアンデッキ「はまみらいウォーク」が設置されている。

東日本旅客鉄道横浜支社
東日本旅客鉄道横浜総合区事務所
横浜ポルタ(地下街)
そごう横浜店(横浜新都市ビル)
紀伊國屋書店
ロフト
ルミネ横浜店
有隣堂ルミネ横浜店

2006年2月供用開始。屋根がガラス張りになっており、開放感のある空間として作られている。きた通路が地下1階にあるため、階段とエスカレーターが設置されている。2009年12月にはベイクォーター・ポートサイド方面へのデッキ「ベイクォーターウォーク」が竣工した。

国道1号金港橋
首都高速神奈川1号横羽線・2号三ツ沢線金港ジャンクション(直下)
ヨコハマポートサイド地区
横浜ベイクォーター
大宮予備校横浜校
代々木ゼミナール横浜東口本校
岩谷学園テクノビジネス専門学校
岩谷学園アーティスティックB専門学校

東口に隣接している。また周辺で再開発計画があるため、横浜中央郵便局と東日本旅客鉄道横浜支社の間に暫定的に設置されている。

東日本旅客鉄道横浜支社
東日本旅客鉄道横浜総合区事務所
横浜中央郵便局
日本郵便横浜支店
ゆうちょ銀行横浜店
横浜ポルタ
横浜ジャスト1号館・2号館
崎陽軒本店
紀文

2008年時点で西口で最も高いビルは横浜ベイシェラトンホテル&タワーズであるが、そのビルが竣工する前は長らく横浜天理教館(天理ビル)(天理教の関連企業東京天理教館が所有するオフィスビル)が西口で最も高いビルとして有名であった。

ザ・ダイヤモンド
有隣堂
横浜駅西口ザ・ダイヤモンド店
児童書コーナー
文庫コーナー
高島屋横浜店
CIAL
相鉄ジョイナス
横浜岡田屋モアーズ
タワーレコード横浜店
ヨドバシカメラマルチメディア横浜ヨドバシ横浜
横浜ベイシェラトンホテル&タワーズ
横浜天理教館(天理ビル)
岡村製作所本社
相鉄ホールディングス相模鉄道本社
神奈川県立横浜平沼高等学校
鶴見歯科学園・横浜歯科技術専門学校
岩崎学園
情報科学専門学校横浜西口校
横浜fカレッジ
情報セキュリティ大学院大学
横浜調理師専門学校
代々木ゼミナール横浜サテラインプラザ西口校
四谷学院横浜校
早稲田塾横浜校
早稲田アカデミー横浜校
グレッグ外語専門学校横浜校
横浜医療専門学校

横浜駅を知る!

横浜駅は、神奈川県横浜市西区高島二丁目にある東日本旅客鉄道京浜急行電鉄と、南幸一丁目にある東京急行電鉄相模鉄道横浜市交通局横浜高速鉄道の駅である。

▼乗り入れ路線
当駅は、日本一多くの鉄道事業者が乗り入れている。乗り入れ路線は東日本旅客鉄道の各線と、東京急行電鉄東横線京浜急行電鉄の本線、相模鉄道の本線、横浜市交通局横浜市営地下鉄ブルーライン横浜高速鉄道みなとみらい線である。

JR東日本の駅に乗り入れている路線は東海道本線根岸線の2路線であるが、運転系統は以下のように多岐にわたっている。

東海道線
横須賀線東海道本線上の専用線路上を走行
総武線快速横須賀線から直通
湘南新宿ライン横須賀線と線路を共用
京浜東北線根岸線:当駅以東で東海道本線電車線、当駅以西で根岸線に乗り入れ
横浜線根岸線横浜線の起点は東海道本線東神奈川駅であるが、一部列車が京浜東北線を通じて乗り入れ
なお、所属線は東海道本線である。またJRの特定都区市内制度における「横浜市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となる。
地下鉄の駅番号はB20となっている。

▼駅構造
ホームは多くが南北方向に伸びており、地上は東寄りから京急線とJR線のホームが並ぶ。かつては東急線もJR線脇の地上2階部分に並行して高架ホームがあったが、みなとみらい線との相互直通運転開始を機に地下5階へ移転した。また、相鉄線横浜市営地下鉄線はこれらの路線の南西側にホームがあり、相鉄線はJR線の脇、地上2階にホームがあり、南方向へ伸び、横浜市営地下鉄は南寄り地下3階に概ね東西方向へホームが伸びる。

地下1階部分では、自由連絡通路「きた通路」「中央通路」「みなみ通路」が東西に貫き、「きた東口(A・B・C)」「きた西口」「中央東口」「中央西口」「みなみ東口」「みなみ西口」の6か所の出口がある。また、地下2階部分の東急線みなとみらい線ホーム上には南北自由通路があり、これらの通路を結んでいる。

東急東横線の旧駅および高架線撤去工事によって西口付近では工事中の箇所があり、旧東横線付近の通路が狭められている。このため、朝のラッシュ時は相鉄および市営地下鉄から東急・JR・京急への乗り換え客を捌き切れない状態に陥っており、緊急措置として店舗の閉店時間は締め切りになっている一部の通路を開放し、工事の影響を受けていない別の通路への誘導を図っている。なお工事終了時には、この取り扱いも終了される見込みである。

ちなみに、横浜駅は工事完成前に次々と工事が行われるため、実質1915年の開業から現在に至るまで、一度も横浜駅の工事計画が完全に完成したことはない。

JR東日本
横浜線の電車が昼間1時間に6本、当駅3・4番線を経由して桜木町駅まで乗り入れているが、朝夕は毎時1本程度の磯子/大船直通列車を除いて基本的に東神奈川発着となっており、同線利用客は京浜東北線に乗車して同駅での乗り換えが必要となる。横浜線は8両編成と京浜東北線に比べて短く、ホームの北側に停車しないため、横浜線直通電車か今度の電車の最前部を表示する電光表示板が設置されている。なお、季節によっては土曜・休日に同線経由で当駅と松本駅を結ぶ特急「はまかいじ」号が運転される。

横須賀線ホームは10番線の一部が神奈川区に跨っている。このホームは湘南新宿ラインの運行開始後から2方向の乗客がホーム上で待機するようになったため混雑の激しい状態が続いている。このため旧東横線のホームと高架橋を撤去した跡地を利用し、ホームを約2倍に拡幅、相鉄線横浜市営地下鉄線との乗り換えを考慮してホームを南へ30メートル移動する工事が進められ、2010年4月24日夜から25日朝に一部列車を運休して線路切り替え・ホーム拡幅工事が行われた。ホーム拡幅後、上り「成田エクスプレス」の停車位置がホームの一番東京寄りからホーム中央付近に変更された。

優等種別でも終点まで各駅に停車する列車が存在するが、それぞれ案内が異なる。京浜東北根岸線、横浜・根岸線の快速は、大船方面は終点まで各駅に停車であるため、「各駅停車」と案内される。東海道線快速「アクティー」は東京方面は終点まで各駅に停車するが、「普通」とは案内されずにそのまま「快速『アクティー』」と案内される。湘南新宿ライン東海道線直通快速は、保土ヶ谷駅・東戸塚駅を通過するため「快速」と案内されるが、戸塚から先は各駅に停車するため、「戸塚から普通」とも案内される。

東京急行電鉄横浜高速鉄道
地下5階にある島式ホーム1面2線を有する地下駅。東急と横浜高速鉄道共同使用駅で、東急が管轄している。東横線渋谷寄りにシーサスポイントがあり、東横線またはみなとみらい線内の不通時などの非常時に使用される。下り最終列車のみ当駅止まりであり、列車到着後ホームに夜間留置され、翌朝当駅始発の下り列車となる。

駅長所在駅。横浜管内として当駅から東白楽駅までを管理している。

改札は地下3階に2か所あり、渋谷寄りから正面改札と南改札となっている。地下1階への出入口ごとおよびフロアごとにそれぞれ3色のアクセントカラーを設定している。フロアごとのアクセントカラーの色は地下2階がオレンジ色、地下3階が緑色、地下5階が水色、出入口ごとのアクセントカラーの色は北口が緑色、中央口がオレンジ色、南口が水色となっている。ホーム7号車付近にはエアコン完備の待合室が1か所設置されていたが、2008年6月に撤去された。また改札内には売店が2か所あるが、横浜高速鉄道の資本関係により、東急系での企業でなく京急系の京急ステーションコマースに運営を委託している。

ホームと改札との間には、階段のほかにエレベーターとエスカレータが設置されている。エスカレータは4か所あり、改札寄りは階段と並行して上下各1組、中程は上下各2基となっている。また、通常より若干速いスピードで運転される事があり、その際の入口に「高速」を表記している。改札階においては、階段・エスカレータとも4か所すべてが同じ方向を向いている。改札外のエスカレータは改札階の地下3階と南北自由通路の地下2階の間は3ルートともある。当初は地下2階と地下1階の間は中央通路と南改札を結ぶルートのみにあり、ほかの2ルートは工事中であったが、2007年11月までにすべてのルートにエスカレータが設置された。なお、南北自由通路を経由すれば中央通路と正面改札の間も階段を使わない移動は可能である。央通路側には同年春頃に1階 - 地下1階を結ぶ18人乗りのものが設置されたが、これのみ管理は横浜市が行っている。