筆頭株主交代の経緯

2001年11月16日、経営が悪化していた当時の親会社・マルハが球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツ渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBS(東京放送。現:東京放送ホールディングスTBSHD〕)に譲渡された。この際、TBSがもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により野球協約に規定されている新規加盟料30億円の支払いは不要とされた。それまでの球団の身売りは球団名からユニフォームまで一新されるケースばかりだったが、横浜のケースは球団名もユニフォームもそのまま残された。唯一変わったところは、ユニフォームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。2005年10月、楽天がTBSの株式を大量購入し筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから野球協約違反になる可能性が再び浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社東京放送ホールディングス(TBSHD)」に移行した事から楽天は買収を断念、反対株主の株式買取請求権を行使し、TBSHDに対し保有全株式の買取請求を行ったことにより、この問題は収束した。

幻に終わった「21世紀初」のダブルヘッダー
2007年9月30日の横浜対東京ヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)は、NPB公式戦(一軍)では実に9年ぶりとなるダブルヘッダーとして開催されることになった。このうち1試合分は、同カードが悪天候により中止となった場合を想定して、シーズン前の日程編成の段階において試合日時と開催球場を未定としていた開催分で、実際に横浜スタジアムで雨天中止となった同カード1試合と組み合わせる形でダブルヘッダーとして編成された。だが、当日はあいにくの雨天でダブルヘッダーは2試合とも中止となり、10月8日・10月9日の2連戦として組み直された。この2連戦も、仮に8日が悪天候の場合は9日をダブルヘッダーとして開催する予定だったが、両日とも予定通り開催された。蛇足だが、8日はマーク・クルーンの横浜在籍最後の登板試合、9日は古田敦也の現役最後の試合であった。NPB公式戦でダブルヘッダーが最後に開催されたのは1998年のこと。パ・リーグは同年10月9日の西武ライオンズオリックス・ブルーウェーブ戦(西武ドーム)、セ・リーグは翌10月10日の横浜対中日ドラゴンズ戦(横浜スタジアム)である。その後ダブルヘッダーはセ・パいずれにおいても開催されておらず、21世紀になってからはまだ一度も無い。従ってNPB公式戦で最後にダブルヘッダーを主催開催したのは前述の通りパが西武、セが横浜で、奇しくも両球団は同年のペナントレースを制している(2009年シーズン終了時点)。

九州で交流戦
2008年5月28日・5月29日の横浜主催セ・パ交流戦・対福岡ソフトバンクホークス2連戦は、九州地方2県で開催された。試合が行われたのは、初日の28日が大分県大分市新大分球場、翌29日が福岡県北九州市北九州市民球場であった。後者の福岡県はソフトバンクの保護地域であり、北九州では1989年の球団移転以来、年間数試合主催公式戦を開催しているが、セ・パ交流戦が相手球団の保護地域で開催されたのはこれが初のケースであった。北九州でのダグアウトの割り振りは、通常のソフトバンク主催試合同様に横浜が三塁側、ソフトバンクが一塁側を使用した。また横浜は同年シーズンまで、交流戦の際には「交流戦専用ユニフォーム」を着用していたが、この2連戦では通常のユニフォームを着用した。一方、ソフトバンクが北九州でビジター用ユニフォームを着用したのはこの試合が初めてであった。横浜市中心部では同年5月26日〜5月30日までの間、TICADアフリカ開発会議)(5月28日〜5月30日)開催のためテロ対策など警備の強化が行われる予定であったことから、日程編成の段階でこれを配慮して地方開催に振り替えたものと見られる(両試合とも横浜球団と地元JNN系列局=28日は大分放送、29日はRKB毎日放送が主催)。観客の大半はホークスファンであったが、首位打者争いをしていた内川聖一にとっては地元大分への凱旋試合となった。但し、北九州市ベイスターズの前身・大洋ホエールズの発祥地である山口県下関市に隣接しており、関門都市圏は古くからベイスターズファンが多い土地柄という背景もある(下関球場も参照)。また横浜は近年、北九州市民球場で主催の春季オープン戦を年間1試合前後開催している。

新潟県・市による誘致構想
2009年9月から、新潟県新潟市NPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始した。同年開場した新潟県立野球場が、NPB関係者から設備面で高い評価を受けたことが背景にある。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、今後NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。なお、これまでの一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補として横浜の名を挙げているが、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からも横浜球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2010年9月現在)。しかし前述の住生活グループへの球団売却問題が明らかになった際、一部報道において新潟を準本拠地、もしくは完全移転する構想が報じられた。住生活グループ側は広域アクセスの問題などから新潟への移転には否定的な見解を示しながらも、将来的な移転の可能性は否定せず、横浜での本拠地継続を求めるTBS側とその他も含めた条件面で折り合いが付かなくなり、結局10月27日までに売却交渉は決裂した。なお横浜側は2011年シーズン、新潟ではこれまでと同様に主催公式戦を開催する意向を表明しており、同年は対阪神タイガース1試合が予定されている。

38年の空白

横浜のリーグ優勝は2回。大洋時代の1960年に初優勝を果たしたものの、2度目の優勝はベイスターズと名前を変えてからの1998年。この間、実に38年間ものブランクを要したが、初のリーグ優勝を果たした後の1962年と1964年は終盤まで阪神タイガースと熾烈な優勝争いを繰り広げている。特に1964年は、残り2試合で1勝すれば4年ぶりの優勝を果たすところまで粘り、阪神甲子園球場での直接対決を迎えた。ところが、試合当日は小雨だったものの、阪神側の意向で試合は中止になった(試合開始前の開催か中止かの判断は主催チームが行う)。その後、阪神は破竹の9連勝を遂げ、8試合目の対中日ドラゴンズ戦で逆転優勝を果たした。当時、大洋の正捕手として活躍していた「明大五人衆」の一人、土井淳は後に「この2年間のどちらかに優勝していたら、38年も(優勝から)遠ざかることは無かったと思う」と語っている。

荒川事件
1969年のドラフト会議で、早稲田大学荒川尭に対する大洋の強行指名が発端となって起きた、ドラフト史上最大とされる事件(荒川事件)。荒川は当初、大洋への入団を拒否、その後の経過では熱狂的な大洋ファンと目される者による荒川への傷害事件まで発生するが、後に荒川は形式的に大洋へ入団し、ヤクルトアトムズに移籍してプロ野球選手として活動するも、傷害事件の後遺症とされる視力障害により早々に選手生命を絶たれた。この事件が原因となって、「横浜ベイスターズ」となってからも、2008年に松本啓二朗細山田武史を指名するまでは早稲田大学在籍の選手をドラフト指名する事はなかった。

湘南電車カラーのユニフォーム
1974年-1977年のシーズンに使用されたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使用していたため、湘南電車を髣髴とさせるその配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」といわれた。このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は静岡県草薙総合運動場硬式野球場でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡出身の山下がドラフト1位で入団したため、ヘッドコーチだった秋山登が「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。
田尾五打席敬遠
1982年、長崎慶一首位打者争いでトップを走っていたが、中日ドラゴンズ田尾安志は長崎に6厘差で迫っていた。中日にとってはシーズン最終戦となる試合で、大洋は田尾に対して5打席連続敬遠を行った。この大洋の行為に対し、田尾は5打席目で敬遠球に対し抗議の意味を込めた空振りを行ったほどだった。一方の長崎はこの試合を含め欠場し、最終的に長崎は首位打者となった。敬遠行為そのものは、この他にも特定の打者への全打席敬遠の例が多数存在し、ルール上認められる行為でもある。ところが、この試合は長崎と田尾の首位打者争いよりもはるかに重要な意味がある試合であったため、この5打席連続敬遠が大きな災いを招く事となる。この試合前の時点で中日は、全日程を終了していた読売ジャイアンツとゲーム差0で並んでいたため、中日が勝てば中日の優勝、大洋が勝てば巨人の優勝と、リーグの優勝が掛かった大一番だった。しかし大洋は田尾に対し5打席連続敬遠を行い、走者となった田尾をあっさり生還させてしまうなど大差で敗れ、中日の優勝が決まった。大洋の勝利よりも個人記録を優先した行為に対し、納得できない多数のファンが試合後に「イニングの先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。「田尾の敬遠だけでは故意に失点させたとはいえず、敗退行為には当たらない」「過去の全打席敬遠の試合との整合性を考慮すると、特定の試合だけを敗退行為として認めるわけにはいかない」など反論され抗議は退けられたが、一段落した後も、世論はこの大洋の行為に「アンチ巨人だが、さすがにあれは巨人ファンに同情した」「中日ファンとして素直に喜べない優勝だ」などといった疑問を投げかけ、宇佐美徹也は自身の著書「プロ野球データブック」で大洋の行為を糾弾した。当時監督だった関根潤三は、その後フジテレビの野球解説者として、解説者となった田尾と再会し、「当時の大洋では個人成績だけがニュースになる状態だった」と敬遠へ至った経緯を説明、「時々、あの敬遠の場面を夢に見て目を覚ますことがある」とも打ち明けた。これ以降、関根と田尾との関係が修復された。

1995年のオールスターファン投票
1995年のオールスターゲーム横浜スタジアムで開催されることとなった。これに当時の球団社長らは、ゲームを盛り上げるためにファンに対してファン投票への参加を呼びかけた。ところが、これが大量の「組織票」を発生させる結果となってしまい、本拠地開催となった横浜からは佐々木主浩駒田徳広ロバート・ローズ佐伯貴弘グレン・ブラッグス畠山準の6人が選出されたため、批判の的となった(他の3名は古田敦也江藤智野村謙二郎)。特に佐伯と畠山に至ってはノミネートこそされていたものの、選出時点ではスタメンを波留敏夫鈴木尚典に譲ることが多く、レギュラーとは言えなかったため、当人たちも困惑気味だった。試合では、通常は抑えの佐々木が先発し、誰にも踏み荒らされていないマウンドで投球する珍しい光景が見られた。

プロ野球脱税事件と緊急補強
1997年にプロ野球選手による脱税(プロ野球脱税事件)が発覚し、横浜からは波留敏夫万永貴司・川崎義文・米正秀が関わっている事が判明した。特にリードオフマンで特攻隊長的役割を担っていた波留の離脱が予想されることは、優勝争いを行う上でも大きな痛手となるため、外野手の補強が急務となった。そこで、先発転向後2年間結果が出なかった盛田幸希とのトレードで、大阪近鉄バファローズから中根仁を獲得した。開幕当初こそ井上純やホセ・マラベなどがスタメンに名を連ねていたが、中根は「左殺し」として左投手先発時のスタメンや、左投手への代打の切り札として1998年の優勝に貢献した。波留も6週間の出場停止が解けると、二軍での調整も一切禁じられていた球団の方針だったにも関わらず、権藤博によってぶっつけ本番でスタメンに復帰する。復帰当初こそ、無調整の状態から結果を残せなかったが調子を取り戻し、7月の月間MVPに輝くなど奮起した。ヒーローインタビューでは「今日のヒーローは波留選手です」というインタビュアーの声と同時に「ヤッター」と自らを鼓舞し、事件の反省をしたのか、感涙と戒めの男泣きを憚り無くお立ち台で見せた。
2001年と2005年の順位
2001年のみセ・リーグの順位決定方法が通常と異なっていた。勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定し、勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによるプレーオフでリーグ優勝チームを決めることにした。その2001年、横浜は69勝67敗4分けで、広島は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で決めていたため、勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラス入りした。この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすいという結果となり、実態が分かりづらいなどの理由からわずか1年で「勝率順」に戻した[39]。2005年は順位決定方法が勝率順に戻っていたため、69勝(70敗7分け、勝率.496)の横浜が3位、71勝(73敗2分け、勝率.493)のヤクルトが4位となった。

ベイスターズの様々な歴史

ユニフォームスポンサー
いずれもホームゲーム用。太字斜線は現在掲出中のスポンサー。
左胸[編集]2008年〜ノジマ
袖部分[編集]2005年・2006年TBS(東京放送。ジ〜ンマーク入り)
2007年アサヒ飲料「アサヒ富士山のバナジウム天然水」
ズボン[編集]2007年TBS(ジ〜ンマーク入り)
2008年マイナビ毎日コミュニケーションズ
2009年TBS(TBSテレビ〔同年4月より旧東京放送からTBSの略称を引き継ぐ〕。ブーブとピンクリボン活動とのコラボレーション)
ヘルメット[編集]2007年〜2008年、2010年リスト
2009年TBS、開国博Y150
歴代本拠地[編集]1950年-1952年下関球場
1953年-1954年大阪球場
※本来は旧松竹ロビンスの本拠地衣笠球場と旧大洋ホエールズの本拠地下関球場のダブルフランチャイズだったが、実質的には旧松竹の準本拠地とされていた大阪球場の方が集客能力が高いということで、使用頻度が多くなった。
1955年-1977年川崎球場
1978年-横浜スタジアム
歴代監督[編集]1950年:渡辺大陸
1951年:中島治康
1951年:有馬義一
1952年-1953年:小西得郎※1
1954年:永沢武夫
1955年:藤井勇※2
1956年-1958年:迫畑正巳
1959年:森茂雄
1960年-1967年:三原脩
1968年-1972年:別当薫(第1次)※3
1973年:青田昇
1974年:宮崎剛
1975年-1976年:秋山登
1977年-1979年:別当薫(第2次)※4
1980年-1981年:土井淳※5
1982年-1984年:関根潤三
1985年-1986年:近藤貞雄
1987年-1989年:古葉竹識
1990年-1992年:須藤豊
1992年:江尻亮
1993年-1995年:近藤昭仁※6
1996年-1997年:大矢明彦(第1次)
1998年-2000年:権藤博
2001年-2002年:森祇晶※7
2003年-2004年:山下大輔
2005年-2006年:牛島和彦
2007年-2009年:大矢明彦(第2次)※8
2010年-:尾花高夫
※太字は優勝達成監督

※11953年から松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンス
※2ここから大洋ホエールズ(第2次)
※31972年は8月30日まで指揮、残り試合は青田昇と宮崎剛が代行
※4ここから横浜大洋ホエールズ
※51981年は9月24日まで指揮、残り試合は山根俊英が代行
※6ここから横浜ベイスターズ
※72002年は9月25日まで指揮、残り試合は黒江透修が代行
※82009年は5月17日まで指揮、残り試合は田代富雄が代行

歴代オーナー
中部謙市(1950年-1953年)
中部謙吉(1953年-1977年)
中部新次郎(1977年-1990年)
中部慶次郎(1990年-2001年)
砂原幸雄(2001年-2004年)
若林貴世志(2004年-)

永久欠番
球団の永久欠番は次の通り。
100-球団に対して貢献のある著名人(複数)横浜ベイスターズでは、通算2000本安打、通算200勝、250セーブを記録した選手に対し、球団より貢献者として顕彰される。各人物は、横浜スタジアムの外野フェンス右翼部分にレリーフを飾り顕彰している。現在の対象者は以下の通り。
25-松原誠(一塁手
27-平松政次(投手)
10-駒田徳広一塁手
22-佐々木主浩(投手)
5-石井琢朗(遊撃手)

球団歌・応援歌
熱き星たちよ(球団歌)
勝利の輝き(応援歌)
湘南シーレックス
若き王者たち(公式ソング)
SearexHorizon(公式テーマ)
過去に使用された球団歌・応援歌[編集]大洋・横浜大洋時代
行くぞ大洋(球団歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)
勝利花(応援歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)
横浜時代
横浜BoyStyle(イメージソング)(歌:CoCo)
WINNING(応援歌)(歌:CoCo)
『横浜BoyStyle』のカップリング曲。コーラスには当時現役だった佐々木主浩盛田幸妃野村弘樹谷繁元信進藤達哉石井琢朗の6選手が参加していた。CoCoの解散や選手の退団・移籍が重なり公式では使われなくなったが、2009年現在も応援団が使用しているのが確認されている。BEAHERO(公式ソング)(歌:クレイジーケンバンドfeat.小野瀬雅生)※2006年まで

主なキャンプ地
山口県・下関球場:1950、1952
兵庫県神戸銀行グラウンド:1951
兵庫県明石球場:1953、1960-1961
長崎県・大橋球場:1954
鹿児島県・鴨池球場:1955、1957-1958
千葉県・銚子球場:1956、1962
岡山県・岡山球場:1956
静岡県・三保東海大グラウンド:1959-1961
愛媛県・松山球場:1959
静岡県・島田球場:1972-1973
静岡市草薙球場:1963-1971、1974-1979、1981-1986の1軍キャンプ、(1981・1987-1989の2軍キャンプ)、他
アリゾナ州メサ市・ホホカム球場[37]:1980-1981の1軍キャンプ
宜野湾市宜野湾市立野球場:1987-
神奈川県・横浜ベイスターズ総合練習場:1990-
沖縄県嘉手納町野球場:湘南シーレックス
鹿児島県・名瀬運動公園野球場:2010秋季(プロ野球初の奄美大島でのキャンプとなる)
主なエピソード
セ・リーグ最長
イニング記録
1952年9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。

試合の消化とユニフォームについて

毎年、他球団に比較して試合消化が遅い。雨天中止などによってヤクルト戦がよく流れ、シーズン終了間際にまとめて組まれる事がある。屋外球場でも瀬戸内側にある阪神甲子園球場マツダスタジアムに比べて関東は雨が降りやすいことや、収入面での影響が大きい巨人戦や阪神戦は多少の雨でも強行することなどが要因として挙げられる。かつては静岡で公式戦やキャンプをやっており、近年では山梨県で公式戦を毎年行っている。そのため静岡・山梨両県にファンが多数存在する。他には横浜のベッドタウンともいえる、東京23区南部(大田区・品川区など)や多摩地方(八王子市や町田市)、球団発祥の地の山口県にも今なお熱烈なファンが多数存在する。
ユニフォームの変遷


下関時代
1950年〜1951年白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についたシールズ型。1951年ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。1952年胸に「TAIYOWHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した小西得郎ピッツバーグ・パイレーツのビジター用(胸ロゴが「PITTSBURGH」)を参考にしたものである。このフルレターユニフォームはシーズンオフに松竹ロビンスと合併したため1年しか使われなかったが、1959年に1年だけ復活している。洋松時代[編集]1953年松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンスに名称変更。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用だった。ビジター用は「TaiyoShochikuRobins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。1954年球団本体がようやく合併し洋松ロビンスとなる。ホーム用とビジター用は同じデザイン。


川崎時代
1955年松竹が撤退し、大洋ホエールズに戻る。同時にロゴの中に線が入ったユニフォームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。左袖のマークはK・N・G・Wの4文字がAを取り囲む形となっている。この年に新しい本拠地に定めた神奈川(かながわ)の4文字がいずれも「あ」を母音とする点に着目したもので、神奈川に対する思いを表現したものとなっている。1955年〜1958年ブルックリン・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、1957年から親会社の「まるはマーク」に変更。1959年〜1962年クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。1959年のみ帽子マークは「T」と「W」を重ね合わせたものを使用し、ビジター用は「TAIYOWHALES」とチーム名を全て表記したものを使用。翌1960年から帽子マークは「T」となり、ビジター用は再び「TAIYO」表記に。この1960年から地色が白となり、胸番号が入る。1961年には左袖にチャンピオンマークが入る。1963年1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、ラインがオレンジ色から赤に変更される。1964年〜1972年白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。1968年に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、当時のワシントン・セネタースの帽子と同じ。2005年には、ワシントン・ナショナルズの帽子として復活した。背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。ホームゲーム用は「KAWASAKI」と本拠地の川崎市を意味する英文字が、ビジター用は選手の名前を英文字でそれぞれ使われた。最初、東京オリンピックで来日した外国人選手が、大洋のホームゲームのナイター中継を観て「このチームは全員、KAWASAKIという選手なのか?」と言ったという。その後、ホーム用は選手名のものと併用される。1973年白地でオレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活。背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ。ホーム用は選手名)もこれが最後。1974年〜1977年基本カラーが湘南電車カラーと呼ばれたものになる(経緯については後述)。ホーム用は、白地でないものを採用。オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴが入ったユニフォームを使用。ビジター用は緑地に橙色「TAIYO」ロゴとなっている。パンツはホーム・ビジター両方ともベルトレス。1977年後半から、袖の「丸に『は』(まるは)」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。


ホエールズ時代
1978年〜1992年本拠地が川崎から横浜への移転を期に、球団名が「横浜大洋ホエールズ」となり、チームカラーが紺一色になる。ホーム用は、白地に胸に本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」(紺色)、左袖に「TAIYO」(同)。帽子は紺色でマークは白で「W」。ビジター用は上着が紺色に白(ホーム用と逆)で「TAIYO」、左袖に「WHALES」。「TAIYO」、「WHALES」のロゴはこれが最後。パンツはグレー。Aクラス入りがわずか3回ながら、15年に渡って使用され、スリムなデザインが受け、ビジター用のユニフォームが全国の草野球チームで使用されるほどだった。スパイクはローリングス(日本での発売元はアシックス)を使用、当時は12球団唯一の採用であった。


ベイスターズ時代
1993年〜チーム名が横浜ベイスターズとなり、ユニフォームを一新。チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青[33]を基調とし、スパイクも青地に白ラインとなる。ユニフォームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めてカッパー・プレート・ゴシックと呼ばれる製版業で使われる書体を採用。途中若干のマイナーチェンジはあったものの、球団史上最も長い16シーズン採用されたデザインとなった。ホーム用は、白地に青のピンストライプ。青地に白の縁取りの「BayStars」のロゴ。胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。ビジター用は、上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本ライン(上着は白、パンツは青)が入る。胸ゴロは白ので「YOKOHAMA」の文字とβの印、選手名、背番号、胸番号は白。1996年〜大矢明彦監督就任と同時に、帽子のマークが若干変更になり、星の数が3つから1つになる。2001年〜スパイクの色が白地に青ラインになる。2003年〜パンツの2本ラインが細くなる。

2004年〜袖の2本ラインが細くなる。2006年〜ビジター用の左胸のβの後ろにある星のマークが消え、「YOKOHAMAβ」のみとなる。ホーム用の白地が明るくなり、ピンストライプ部分が刺繍からプリントになる。2009年〜横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。プロ野球では2001年のオリックス・ブルーウェーブ以来となる前開きでないプルオーバータイプを採用する。胸番号・背番号がゴシック体のような書体になる。アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色が紺。帽子のマークから☆マークが消え、「β」のみになる。ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。両肩に銀色の星マークが入る。「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側ラインに入る。背ネームは幅狭。ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ビジターのみ帽子のツバの色が青色。背ネームはホームに比べて幅広。2010年主催試合の初戦に限り、ホーム用の両肩の星マークの色を「金星をつかむ」という意味を込めて金色に変更。ただし実際には初戦以外でも使用されている。

交流戦限定ユニフォーム
2005年〜2006年ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。TBSのロゴが入った。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。2007年〜2008年ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺ベースのユニフォーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には横浜赤レンガ倉庫をイメージした臙脂色が用いられる。楽天交流戦ユニフォーム(ホーム用)と非常に良く似ている。2009年~2010年は登場せず。夏季限定ユニフォーム[編集]2004年から毎年夏季限定ユニフォームを採用している。いずれも8月主催試合(2010年は7月中旬から8月いっぱい)でのホーム用のみ。2004年〜2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り脇下が青で西武ライオンズのデザインと非常に似ていた。両年とも期間終了後に選手のサインをいれファンへプレゼントされる。背番号の氏名ローマ字は記載されていない。2006年〜2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。2010年は3年ぶりに夏季限定ユニホームが登場した。デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更される予定である。

毎年、他球団に比較して試合消化が遅い。雨天中止などによってヤクルト戦がよく流れ、シーズン終了間際にまとめて組まれる事がある。屋外球場でも瀬戸内側にある阪神甲子園球場マツダスタジアムに比べて関東は雨が降りやすいことや、収入面での影響が大きい巨人戦や阪神戦は多少の雨でも強行することなどが要因として挙げられる。かつては静岡で公式戦やキャンプをやっており、近年では山梨県で公式戦を毎年行っている。そのため静岡・山梨両県にファンが多数存在する。他には横浜のベッドタウンともいえる、東京23区南部(大田区・品川区など)や多摩地方(八王子市や町田市)、球団発祥の地の山口県にも今なお熱烈なファンが多数存在する。
ユニフォームの変遷


下関時代
1950年〜1951年白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についたシールズ型。1951年ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。1952年胸に「TAIYOWHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した小西得郎ピッツバーグ・パイレーツのビジター用(胸ロゴが「PITTSBURGH」)を参考にしたものである。このフルレターユニフォームはシーズンオフに松竹ロビンスと合併したため1年しか使われなかったが、1959年に1年だけ復活している。洋松時代[編集]1953年松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンスに名称変更。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用だった。ビジター用は「TaiyoShochikuRobins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。1954年球団本体がようやく合併し洋松ロビンスとなる。ホーム用とビジター用は同じデザイン。


川崎時代
1955年松竹が撤退し、大洋ホエールズに戻る。同時にロゴの中に線が入ったユニフォームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。左袖のマークはK・N・G・Wの4文字がAを取り囲む形となっている。この年に新しい本拠地に定めた神奈川(かながわ)の4文字がいずれも「あ」を母音とする点に着目したもので、神奈川に対する思いを表現したものとなっている。1955年〜1958年ブルックリン・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、1957年から親会社の「まるはマーク」に変更。1959年〜1962年クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。1959年のみ帽子マークは「T」と「W」を重ね合わせたものを使用し、ビジター用は「TAIYOWHALES」とチーム名を全て表記したものを使用。翌1960年から帽子マークは「T」となり、ビジター用は再び「TAIYO」表記に。この1960年から地色が白となり、胸番号が入る。1961年には左袖にチャンピオンマークが入る。1963年1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、ラインがオレンジ色から赤に変更される。1964年〜1972年白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。1968年に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、当時のワシントン・セネタースの帽子と同じ。2005年には、ワシントン・ナショナルズの帽子として復活した。背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。ホームゲーム用は「KAWASAKI」と本拠地の川崎市を意味する英文字が、ビジター用は選手の名前を英文字でそれぞれ使われた。最初、東京オリンピックで来日した外国人選手が、大洋のホームゲームのナイター中継を観て「このチームは全員、KAWASAKIという選手なのか?」と言ったという。その後、ホーム用は選手名のものと併用される。1973年白地でオレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活。背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ。ホーム用は選手名)もこれが最後。1974年〜1977年基本カラーが湘南電車カラーと呼ばれたものになる(経緯については後述)。ホーム用は、白地でないものを採用。オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴが入ったユニフォームを使用。ビジター用は緑地に橙色「TAIYO」ロゴとなっている。パンツはホーム・ビジター両方ともベルトレス。1977年後半から、袖の「丸に『は』(まるは)」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。


ホエールズ時代
1978年〜1992年本拠地が川崎から横浜への移転を期に、球団名が「横浜大洋ホエールズ」となり、チームカラーが紺一色になる。ホーム用は、白地に胸に本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」(紺色)、左袖に「TAIYO」(同)。帽子は紺色でマークは白で「W」。ビジター用は上着が紺色に白(ホーム用と逆)で「TAIYO」、左袖に「WHALES」。「TAIYO」、「WHALES」のロゴはこれが最後。パンツはグレー。Aクラス入りがわずか3回ながら、15年に渡って使用され、スリムなデザインが受け、ビジター用のユニフォームが全国の草野球チームで使用されるほどだった。スパイクはローリングス(日本での発売元はアシックス)を使用、当時は12球団唯一の採用であった。


ベイスターズ時代
1993年〜チーム名が横浜ベイスターズとなり、ユニフォームを一新。チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青[33]を基調とし、スパイクも青地に白ラインとなる。ユニフォームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めてカッパー・プレート・ゴシックと呼ばれる製版業で使われる書体を採用。途中若干のマイナーチェンジはあったものの、球団史上最も長い16シーズン採用されたデザインとなった。ホーム用は、白地に青のピンストライプ。青地に白の縁取りの「BayStars」のロゴ。胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。ビジター用は、上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本ライン(上着は白、パンツは青)が入る。胸ゴロは白ので「YOKOHAMA」の文字とβの印、選手名、背番号、胸番号は白。1996年〜大矢明彦監督就任と同時に、帽子のマークが若干変更になり、星の数が3つから1つになる。2001年〜スパイクの色が白地に青ラインになる。2003年〜パンツの2本ラインが細くなる。

2004年〜袖の2本ラインが細くなる。2006年〜ビジター用の左胸のβの後ろにある星のマークが消え、「YOKOHAMAβ」のみとなる。ホーム用の白地が明るくなり、ピンストライプ部分が刺繍からプリントになる。2009年〜横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。プロ野球では2001年のオリックス・ブルーウェーブ以来となる前開きでないプルオーバータイプを採用する。胸番号・背番号がゴシック体のような書体になる。アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色が紺。帽子のマークから☆マークが消え、「β」のみになる。ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。両肩に銀色の星マークが入る。「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側ラインに入る。背ネームは幅狭。ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ビジターのみ帽子のツバの色が青色。背ネームはホームに比べて幅広。2010年主催試合の初戦に限り、ホーム用の両肩の星マークの色を「金星をつかむ」という意味を込めて金色に変更。ただし実際には初戦以外でも使用されている。

交流戦限定ユニフォーム
2005年〜2006年ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。TBSのロゴが入った。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。2007年〜2008年ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺ベースのユニフォーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には横浜赤レンガ倉庫をイメージした臙脂色が用いられる。楽天交流戦ユニフォーム(ホーム用)と非常に良く似ている。2009年~2010年は登場せず。夏季限定ユニフォーム[編集]2004年から毎年夏季限定ユニフォームを採用している。いずれも8月主催試合(2010年は7月中旬から8月いっぱい)でのホーム用のみ。2004年〜2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り脇下が青で西武ライオンズのデザインと非常に似ていた。両年とも期間終了後に選手のサインをいれファンへプレゼントされる。背番号の氏名ローマ字は記載されていない。2006年〜2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。2010年は3年ぶりに夏季限定ユニホームが登場した。デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更される予定である。

毎年、他球団に比較して試合消化が遅い。雨天中止などによってヤクルト戦がよく流れ、シーズン終了間際にまとめて組まれる事がある。屋外球場でも瀬戸内側にある阪神甲子園球場マツダスタジアムに比べて関東は雨が降りやすいことや、収入面での影響が大きい巨人戦や阪神戦は多少の雨でも強行することなどが要因として挙げられる。かつては静岡で公式戦やキャンプをやっており、近年では山梨県で公式戦を毎年行っている。そのため静岡・山梨両県にファンが多数存在する。他には横浜のベッドタウンともいえる、東京23区南部(大田区・品川区など)や多摩地方(八王子市や町田市)、球団発祥の地の山口県にも今なお熱烈なファンが多数存在する。
ユニフォームの変遷


下関時代
1950年〜1951年白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についたシールズ型。1951年ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。1952年胸に「TAIYOWHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した小西得郎ピッツバーグ・パイレーツのビジター用(胸ロゴが「PITTSBURGH」)を参考にしたものである。このフルレターユニフォームはシーズンオフに松竹ロビンスと合併したため1年しか使われなかったが、1959年に1年だけ復活している。洋松時代[編集]1953年松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンスに名称変更。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用だった。ビジター用は「TaiyoShochikuRobins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。1954年球団本体がようやく合併し洋松ロビンスとなる。ホーム用とビジター用は同じデザイン。


川崎時代
1955年松竹が撤退し、大洋ホエールズに戻る。同時にロゴの中に線が入ったユニフォームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。左袖のマークはK・N・G・Wの4文字がAを取り囲む形となっている。この年に新しい本拠地に定めた神奈川(かながわ)の4文字がいずれも「あ」を母音とする点に着目したもので、神奈川に対する思いを表現したものとなっている。1955年〜1958年ブルックリン・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、1957年から親会社の「まるはマーク」に変更。1959年〜1962年クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。1959年のみ帽子マークは「T」と「W」を重ね合わせたものを使用し、ビジター用は「TAIYOWHALES」とチーム名を全て表記したものを使用。翌1960年から帽子マークは「T」となり、ビジター用は再び「TAIYO」表記に。この1960年から地色が白となり、胸番号が入る。1961年には左袖にチャンピオンマークが入る。1963年1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、ラインがオレンジ色から赤に変更される。1964年〜1972年白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。1968年に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、当時のワシントン・セネタースの帽子と同じ。2005年には、ワシントン・ナショナルズの帽子として復活した。背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。ホームゲーム用は「KAWASAKI」と本拠地の川崎市を意味する英文字が、ビジター用は選手の名前を英文字でそれぞれ使われた。最初、東京オリンピックで来日した外国人選手が、大洋のホームゲームのナイター中継を観て「このチームは全員、KAWASAKIという選手なのか?」と言ったという。その後、ホーム用は選手名のものと併用される。1973年白地でオレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活。背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ。ホーム用は選手名)もこれが最後。1974年〜1977年基本カラーが湘南電車カラーと呼ばれたものになる(経緯については後述)。ホーム用は、白地でないものを採用。オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴが入ったユニフォームを使用。ビジター用は緑地に橙色「TAIYO」ロゴとなっている。パンツはホーム・ビジター両方ともベルトレス。1977年後半から、袖の「丸に『は』(まるは)」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。


ホエールズ時代
1978年〜1992年本拠地が川崎から横浜への移転を期に、球団名が「横浜大洋ホエールズ」となり、チームカラーが紺一色になる。ホーム用は、白地に胸に本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」(紺色)、左袖に「TAIYO」(同)。帽子は紺色でマークは白で「W」。ビジター用は上着が紺色に白(ホーム用と逆)で「TAIYO」、左袖に「WHALES」。「TAIYO」、「WHALES」のロゴはこれが最後。パンツはグレー。Aクラス入りがわずか3回ながら、15年に渡って使用され、スリムなデザインが受け、ビジター用のユニフォームが全国の草野球チームで使用されるほどだった。スパイクはローリングス(日本での発売元はアシックス)を使用、当時は12球団唯一の採用であった。


ベイスターズ時代
1993年〜チーム名が横浜ベイスターズとなり、ユニフォームを一新。チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青[33]を基調とし、スパイクも青地に白ラインとなる。ユニフォームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めてカッパー・プレート・ゴシックと呼ばれる製版業で使われる書体を採用。途中若干のマイナーチェンジはあったものの、球団史上最も長い16シーズン採用されたデザインとなった。ホーム用は、白地に青のピンストライプ。青地に白の縁取りの「BayStars」のロゴ。胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。ビジター用は、上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本ライン(上着は白、パンツは青)が入る。胸ゴロは白ので「YOKOHAMA」の文字とβの印、選手名、背番号、胸番号は白。1996年〜大矢明彦監督就任と同時に、帽子のマークが若干変更になり、星の数が3つから1つになる。2001年〜スパイクの色が白地に青ラインになる。2003年〜パンツの2本ラインが細くなる。

2004年〜袖の2本ラインが細くなる。2006年〜ビジター用の左胸のβの後ろにある星のマークが消え、「YOKOHAMAβ」のみとなる。ホーム用の白地が明るくなり、ピンストライプ部分が刺繍からプリントになる。2009年〜横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。プロ野球では2001年のオリックス・ブルーウェーブ以来となる前開きでないプルオーバータイプを採用する。胸番号・背番号がゴシック体のような書体になる。アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色が紺。帽子のマークから☆マークが消え、「β」のみになる。ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。両肩に銀色の星マークが入る。「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側ラインに入る。背ネームは幅狭。ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ビジターのみ帽子のツバの色が青色。背ネームはホームに比べて幅広。2010年主催試合の初戦に限り、ホーム用の両肩の星マークの色を「金星をつかむ」という意味を込めて金色に変更。ただし実際には初戦以外でも使用されている。

交流戦限定ユニフォーム
2005年〜2006年ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。TBSのロゴが入った。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。2007年〜2008年ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺ベースのユニフォーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には横浜赤レンガ倉庫をイメージした臙脂色が用いられる。楽天交流戦ユニフォーム(ホーム用)と非常に良く似ている。2009年~2010年は登場せず。夏季限定ユニフォーム[編集]2004年から毎年夏季限定ユニフォームを採用している。いずれも8月主催試合(2010年は7月中旬から8月いっぱい)でのホーム用のみ。2004年〜2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り脇下が青で西武ライオンズのデザインと非常に似ていた。両年とも期間終了後に選手のサインをいれファンへプレゼントされる。背番号の氏名ローマ字は記載されていない。2006年〜2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。2010年は3年ぶりに夏季限定ユニホームが登場した。デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更される予定である。

交流戦での成績

2005年から始まったセ・パ交流戦では2008年から3年連続最下位(最高は2007年の3位)。さらに2010年6月12日(対オリックス戦)において12球団で最も早く交流戦通算100敗目を喫した。2010年終了時、在籍する日本ハムを除く11球団で唯一ダルビッシュ有に負けていない。2010年5月21日の札幌ドームでの日本ハム戦では、それまで自己新記録である31イニング連続無失点だったダルビッシュからターメル・スレッジがソロホームランを放ち記録を止め、内川聖一の内野ゴロ、村田修一のタイムリーで3点を奪い、黒星をつけている。営業・ファンサービス[編集]以前は巨人戦のみ内野自由席を指定席として販売していたが、2005年以降行われていない。200?年から、レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売するようになった。2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。2005年から、エグゼクディブ・アドバイザーの石橋貴明とんねるず)の意向で、横浜スタジアムの可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。

選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。試合前・試合中に行われるイベントの種類・回数はかなり多く、攻守交代時のうち半分程度は何らのイベントが行われている。以下は2007年時点のもの。スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例。読売新聞グループ各社の記者には必ずブーイングが飛ぶ)スタプリタイム(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ)ベイスターズバズーカ(客席に子供向けのシャツやカラーボールを発射、試合中に3〜4回程度)ハマスタダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年がデサント提供の年間指定席ペア招待券)帽子の投げ入れ(勝利した場合のみ)第二ヒーローインタビュー(試合勝利後に正面レストラン外に設置されたテラスから、影のヒーローなどを中心にインタビューが行われる。

球場の外からテラスを見上げる形になり、当日試合を見られなかった人も勝利の余韻に浸ることが出来る。ただし天候状態不良、ナイターの試合終了時間が遅い場合は、行わない場合がある。)横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、ならびに(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。

株主構成 2009年4月1日現在
株式会社東京放送ホールディングス67万株(51.54%・BS-TBS保有分と合わせTBSグループとして69.23%保有
株式会社ニッポン放送40万株(30.77%)
株式会社BS-TBS23万株(17.69%)
「放映権(日本プロ野球)」も参照
東京放送ホールディングス筆頭株主(事実上のオーナーと目される)でありながら、傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオ&コミュニケーションズでは、対巨人戦以外の中継はめったに行われない。巨人戦以外は視聴率と聴取率が取れない事にも起因している。テレビ中継は、通常はテレビ神奈川が単独で放送[29]し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社またはテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っている。フジテレビも放映権は保有しているが、現在は同局では放送せず、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本)制作中継のために行使しているのが現状である。ラジオ中継は、TBSラジオが基幹局を務めるJRN系、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系において裏送りも含めて中継している。主に、巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、巨人戦がないときに放送される。新旧親会社の球団経営に対する手腕の差[編集]マルハ傘下時代は、1989年以前はオーナーの道楽的存在、もしくは親会社の広告塔的存在としての評価に留まり、地元・横浜でも不人気に喘ぐことが多かったが、1990年に就任した中部慶次郎オーナー(当時)のもと、積極的に球団の経営改善と地元密着に取り組み、その第1弾として1992年オフに球団名から親会社名を外して「横浜ベイスターズ」と変更。

それ以降、1993年オフの主力選手大量解雇や歴代監督の交代劇等で波紋を起こすことも多かったが、その一方で石井琢朗進藤達哉鈴木尚典三浦大輔に代表される生え抜きの新戦力育成と駒田徳広のFA獲得等でチームを大きく体質改善し、1998年には日本シリーズ制覇に至る。経営面でも二軍を「湘南シーレックス」として独立採算制を試みるなどの施策が行われ、一時は球団の黒字転換を実現したこともあった。ところが、親会社がTBS(現:東京放送ホールディングス)に代わり、マルハから出向していた大堀隆球団社長(当時)が2002年オフで退任すると途端に経営状態が悪化、2003年度には巨額の赤字を計上してしまう。これ以降チームの弱体化や各種スキャンダルの噴出が顕著になり、またマルハ時代は育成・補強の方針が首尾一貫しており的確な対応がとられていたチーム編成でもその場凌ぎのトレードを連発したり、ネームバリュー重視の補強がスポーツ紙に素破抜かれたりするなど場当たり的な対応が多くなり、結果的に現在に至る低迷につながっている。

これについて、球団の親会社依存体質からの脱却と地元密着、チームの体質改善に積極的に取り組んだマルハに対して、TBSはもともと球団経営に興味がない、または親会社のコンテンツ確保が第一目的(だとしても、現状はとても有効活用できているとは言い難い)と思われ、経営やチーム強化については二の次という印象が強いうえ、その手腕も稚拙(チームが商業主義、ショウアップ第一主義に走りすぎている、球団全体が1989年以前に戻ったかそれより悪化した)と批判されることが多い。成績の低迷と共にTBSと横浜市横浜スタジアムとの関係も著しく悪化しており、その険悪ぶりが西武への身売り直前の福岡野球(クラウンライターライオンズ)と福岡市の関係に準えられ、危惧する声も出ている。1998年の優勝前後に複数年契約を連発し失敗したことへの反省から、契約は単年契約を基本としている。しかしながら、首位打者内川聖一、2年連続本塁打王村田修一らは個人成績では年俸に見合った活躍といえるものの、それがチーム成績に反映される結果となっていないため、「貰いすぎ」「彼らに甘いから、選手が個人成績ばかりに執着してチームが強くならない」との声も多い。

それ以前に高木豊も1992年はオフに年俸の交渉がまとまらず、年俸調停を申請。この結果、高木は球団の提示額よりわずかな上積みを勝ち取ったが、翌年は不調に終わり、これが同年オフの大量解雇の要因になっている。球団関連会社からファンマガジン『月刊ベイスターズ』を発売(毎月25日)していた。やくみつる山本哲士といった辛口のコラムニスト陣が球団を容赦なく批判した(両者共に2007年より休載)ことで有名。漫画家のみずしな孝之は『月刊ホエールズ』(当時)への投稿がきっかけで漫画家デビューし、1999年に連載復帰、今も続いている。2010年12月号を持って休刊。

応援スタイルを解説

トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・応援メガホンやバットの使用・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。独特な旋律は応援歌の枠を超えて他球団ファンにも人気がある。移籍して入団する選手が口を揃えて「横浜のファンは大人しい(紳士的)」と言うなど、他球団の野次合戦とは一線を画し応援についての申し合わせを遵守している。
以下は2010年時点のもの
本拠地・横浜スタジアムでは試合前イベントの時間を確保する都合上、スタメン発表時に応援歌演奏(1-9)を並行して行っている(メンバー発表→応援歌演奏→メンバー発表→応援歌演奏…の繰り返し)。このスタイルは相手チームも同様に行っている。得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。ホームラン時、勝利時にはその前にファンファーレが演奏される。代打登場時には1回だけ代打のテーマが演奏される。佐伯貴弘村田修一については、代打で登場した場合でもファンファーレが優先される。投手の打席では投手用のテーマが演奏されるが、三浦大輔の打席に限り固有のテーマが演奏される。過去には斎藤隆野村弘樹・パット・マホームズライアン・グリンに対しても固有のテーマが演奏された。以前は選手別応援歌CDが発売されており、これらの曲が用いられていたが、次第に元選手からの使い回しが増え、球団で流れることのない応援歌の方が多くなってしまった[23]ことから2002年を最後に制作されなくなった。近年入団した選手では応援団が作成したテーマや、過去のあまり使用されなかった選手のものを流用するなどしている。

チャンステーマ演奏時や太鼓が使用できない神宮球場ナイトゲームでは、応援メガホンやバットを用いず手拍子での応援が行われている。7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「WINNING」が応援団により演奏される。多くの球団で行われているジェット風船横浜スタジアムで禁止(ポイ捨て禁止条例抵触等の理由により)されているため、ビジター・地方球場でも(勝利時も含めて)飛ばすファンは少ない。アウトコールは9回以降にリードしている場面に限り行われる。2007年より試合時、1-9の前に「勝利の輝きファンファーレ」が演奏されるようになった(初期のころはビジターのみ)。トランペット、及び笛の使用が禁止されている宮城球場では、メロディー部の口喇叭を含め応援歌の歌唱をアカペラで行う。ヒットによる出塁や盗塁時に「いいぞいいぞ○○(人名)」を、四死球や野手選択など相手のミスによる出進塁時に「Let'sGoLet'sGo○○(人名)」を通常の三三七拍子に変えてコールする。宮城球場以外でも、鳴り物応援を自粛する22時以降にはこの応援を行う。ヒットでの出塁の際はファンファーレ(三三七拍子)の後に、ヒットを打った選手の名前をスリーコールする。

ターメル・スレッジには、交流戦においては日本ハム時代の旧テーマと横浜時代の新テーマ(かつて在籍したデーブ・ドスターの公式応援歌)を交互に演奏する。私設応援団[編集]横浜球団ではNPB特別応援許可を受けた以下の団体が応援を指揮する。

横浜ベイスターズを愛する会
全国星覇会
湘南海坊主(SHONANSEABOSE)
戦績
1998年の日本シリーズ横浜スタジアムでの胴上げ(1960年は大毎の本拠・後楽園球場)を果たしているが、リーグ優勝はいずれもビジターでの達成(1960年、1998年ともに阪神甲子園球場)である。現存するセ・リーグ6球団の中で唯一のシーズン勝率6割未到達球団。最高勝率は優勝した1998年の.585。現存するセ・リーグ6球団で唯一生え抜き監督によるリーグ優勝が1度も無い。これは生え抜き監督が極端に少ないことによる(後述)。また、これらの生え抜き監督はリーグ優勝どころかAクラスも1度も記録していない。日本シリーズ出場は2回しかないが、その2度とも日本一を達成し勝率100%。現存の12球団のうち、出場していない楽天を除く11球団の中で唯一シリーズ敗退が無い。現存するセ・リーグ5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。セ・リーグ発足時には同じ弱小チームだった広島や国鉄・サンケイ・(東京)ヤクルトに対しても、広島には1960年代までは勝ち越していた時期があったが、70年代中盤の広島黄金期樹立により逆転(初のリーグ優勝を達成した1975年から10年連続の負け越しを喫した)し、ヤクルトに対しても1980年代には6シーズンも勝ち越す(1981年、84年、87年はタイで、負け越したのはヤクルトが昭和最後のAクラスシーズンでもあった1980年だけ)など、1979年時点では5つの負け越しから逆転したが、1990年代のヤクルト躍進と21世紀に入ってからの横浜の低迷によって勝敗が再逆転した(特に1993年には4勝22敗と大きく負け越し、90年代全体の負け越しの半分以上を占めた)。

現存するセ・リーグ6球団の中でAクラス入り回数が最も少ない(2010年終了時点で15回)。こちらも広島には1980年代初頭には逆転され、2009年にはヤクルトにも逆転された(横浜=6位、ヤクルト=3位)。3シーズン連続90敗を唯一記録している球団である(2008年-2010年)。そのほか、2シーズン連続90敗を記録している(1954年-1955年)。2シーズン連続90敗は過去に高橋(トンボ)ユニオンズ・近鉄パールズ(バファロー)が記録しているが、現存する12球団では唯一の記録である。3年連続90敗以上はこれまで延べ5チームが喫した2年連続を上回るプロ野球ワースト新記録。また、横浜のシーズン90敗以上は通算6度目。こちらも近鉄の5度を抜くワーストの屈辱となった。最下位に20回は消滅したチームも含めて両リーグトップ。現存するセ・リーグ6球団の中で、唯一巨人相手に、ノーヒットノーランを達成した投手が(移籍選手も含めて)いない。また巨人相手に騒動となる乱闘を起こしていない。伝統的に先発完投型の投手が少なく、平成に入ってからセ・リーグの中で唯一沢村栄治賞受賞者のいない球団である(2010年シーズン終了時点。ちなみに最後の受賞者は1983年の遠藤一彦)。最多勝投手も1993年の野村弘樹、15勝以上挙げた投手も1999年の川村丈夫を最後に輩出していない。

チーム成績、記録(2010年終了時)

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示すリーグ優勝2回
(1960年、1998年)
日本一2回
(1960年、1998年)
Aクラス15回
(1960年、1962年、1964年、1969年〜1971年、1979年、1983年、1990年、1997年〜2001年、2005年)※1
Bクラス46回
(1950年〜1959年、1961年、1963年、1965年〜1968年、1972年〜1978年、1980年〜1982年、1984年〜1989年、1991年〜1996年、2002年〜2004年、2006年〜)
最多勝80勝(1964年)
最多敗99敗(1955年)
最多引分17分(1979年)
最高勝率.585(1998年)
最低勝率.238(1955年)
最多連勝10(過去5度記録、直近のは1999年)
最多連敗14(1955年、2008年)※2008年のものは1引き分け挟む。
最長試合時間6時間13分(1998年8月9日対広島戦)
連続Aクラス入り最長記録5年(1997年〜2001年)
連続Bクラス最長記録10年(1950年〜1959年)
通算4000敗(2007年4月4日の対広島戦で、2リーグ制発足後最速の記録)
※12001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はBクラス(4位)になっていた。
その他の記録[編集]最小ゲーム差1.0ゲーム(1964年)
最大ゲーム差61.5ゲーム(1955年)
最多本塁打194本(2004年)
最小本塁打51本(1955年)
最高打率.294(1999年)
最低打率.208(1956年)
最高防御率2.31(1971年)
最低防御率4.94(1977年)


チームの特徴
球団名
第二次世界大戦中に存在した大洋軍とは名前が同じだけで、繋がりは全くない。
以前の愛称「ホエールズ」は親会社・大洋漁業のかつての主要業務が捕鯨だったことに由来する。
現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた。日本人が考えた造語で、英語の母語話者には通じないらしく、『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではグリーンベイウィスコンシン州)のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカのメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある
改称時、愛称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため「YokohamaBayStars」の「YB」を略称としている。オリックス近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs)となっているため、愛称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている
2011年現在、12球団で唯一企業名が入っていない。


マスコット
2010年開幕時点で現役活動中のマスコット
球団マスコットは頭が星形のキャラクターたちである。かつてはホッシーが父親、ホッシーナとホッシーゾがその子供たちであるとの設定が述べられていることもあったが、昨今は3兄弟(ホッシーナ、ホッシーゾは双子)という設定で固められている。2010年シーズン開幕より、湘南のマスコット「レック」と同時に日本プロ野球球団のマスコットキャラクターとしては二番目に公式twitterアカウントの運用を開始した(日本初は1日早かった福岡ソフトバンクホークスのハリーホークだった)。12球団で唯一、生物をモチーフにしていない。
ホッシー(hosshey)-三兄弟の長兄でリーダー的存在。ペットマークを含め球団のシンボルとして数多くの場所で採用されている。
優しげな口調で喋る良い子キャラ。
ホッシー横浜スタジアムにて(2010年8月8日)ホッシーナ(hossiena)-ホッシーの妹で三兄弟の真ん中。
明るい口調で喋る元気な女の子。
ホッシーゾ(hossiezo)-ホッシーの弟で三兄弟の末っ子。
語尾に「YO!!」(あるいは本人の名前に引っ掛けて「ZO!!」)を付けた言葉を多様するヒップホップ系キャラ。
2009年秋から横浜ベイスターズ献血支援運動の大使として活動しており、神奈川県内の複数の献血ルームで配られる進呈品のキャラクターにも採用された。以来、献血に対するこだわりは強いらしく度々献血について言及している。血液型は☆(星)型。
球団のマスコットではないが、横浜スタジアム交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオエキサイトベースボール』のマスコットである「エキベ〜」が登場する。


以前に存在したマスコット
ブラックホッシー-黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。中の人(スーツアクター)は以前に阪神タイガースマスコットの「トラッキー」のアクターとしてその派手なパフォーマンスが人気を集めており、「流星ジャンプ」に代表されるハチャメチャなアクションで絶大な人気を得た。球団としてもグッズ製作に乗り出そうとした矢先の2004年オフ、「中の人」が楽天の「非公認」マスコットMr.カラスコの「中の人」として引き抜かれたことで消えた。この時「ブラックホッシー獲られちゃったよ…」と肩を落とした横浜の峰岸球団社長だけでなく、佐伯貴弘トラッキー時代から交流があり、解任直後の中の人に横浜入りを勧めたとも言われている)や三浦大輔、果ては若林オーナーまでもが失意のコメントを残している。横浜スタジアムで開催された2008年のオールスター第2戦、公式戦では2010年3月30日の本拠地開幕戦(対巨人)、4月18日の阪神戦や6月12日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)で復活を果たしている。また横浜スタジアム開門直後に流れる球場マナーについてのお願いのVTRにはマナーの悪いファンとして出演している。


ニューホッシー-正式名称は「2001年ニューホッシー」。文字どおり2001年シーズンに登場。視線が常に本人から見て左側を向いているが、これは球団公式イラストのホッシーとデザインを合わせたため。以前からのホッシーと比較して、顔が着ぐるみでない(同時に登場した湘南シーレックスのマスコット・レックの人形と同じ材質)うえに大きさも小さいため、体型がシャープで、既存ホッシーに比べると多少アクロバティックな動きもこなせる。2001年から2004年頃にかけて度々登場していたが、既存ホッシーほどの支持を得られなかったため、数年で姿を消すことになった。背番号2001。